家業を継ぐ前の仕事は、無駄になっていなかった|異業種から入った13人の取材まとめ
家業がある家に生まれた人が、いったんよその世界で働く。そしてある日、戻る。
このとき本人がいちばん気にしているのは、たぶん「これまでやってきたことが、ぜんぶ無駄になるのではないか」という不安ではないでしょうか。郵便局で働いていた人が油揚げを揚げる。半導体のエンジニアがミシンの工場に立つ。DNAを研究していた人が金属を削る。どう考えても、地続きには見えません。
Shikisaiのインタビューとラジオ記事から、家業に入る前の仕事がはっきり語られているものを13本選んで並べてみました。業種は麹、化粧品、町工場、縫製、豆腐、不動産、印刷、水産、土木、大工、ジビエ、鎌倉彫、調査業。前職のほうも、郵便局、化学メーカーの研究職、電機メーカーの営業、水産商社、建設会社と、見事にばらばらです。
読み終えてはっきりしたことが一つあります。前の仕事は、ほぼ全員が家業に持ち込んでいたのです。しかも持ち込まれたのは技術そのものではなく、「ものの見方」や「客との距離の取り方」でした。
この記事では、13本から見えたことを7つの発見に整理します。これから家業に入るか迷っている人にも、後継者を待っている側にも、材料になるはずです。
目次
発見① まったく違う仕事ほど、持ち込まれるのは「見方」だった
いちばん距離が離れていたのは、大阪府柏原市で金属・樹脂部品のフライス加工を手がける平野製作所の平野暁彦さんでしょう。二代目である平野さんは、もともと大阪大学の博士課程でDNAの研究をしていた人です。
研究に惹かれた理由を、平野さんはこう説明しています。
研究は、自分でテーマを決め、自分で研究の仕方やアプローチを考え、それを解明していく
その姿勢が、いまも抜けていません。部品加工は奥が深く、加工方法も素材も分からないことばかり。そういうものが目の前に出てくると「どうしても調べてしまう。調べずにはいられない」。学生時代に面白いと思った作法が、そのまま町工場の仕事になっているわけです。
同じ構図が、93年続く化粧品会社・東京美容科学研究所の小澤貴子さんにもあります。小澤さんは大学で化学を専攻し、大手化学メーカーで研究職に就いていました。化粧品業界はまったくの未経験です。父の引退をきっかけに三代目として家業に入り、そこで気づいたことがありました。
業界全体を研究者の視点で見たとき「科学的に矛盾している」ことが多いと気づきました
未経験だったことは、ここでは弱点になっていません。業界の常識を知らない目で見たからこそ、常識のほうが気になった。前職が残したのは化粧品の知識ではなく、疑う手つきでした。
発見② 技術は違っても「ものづくりの本質は一緒だ」と言い切った人がいる
大分県で1972年創業の縫製メーカー・ダイナンの但馬史晴さんは、大学の工学部を出て半導体の会社に入り、光通信用半導体製造のエンジニアとして働いていました。ITバブルが弾けて職場が揺らいだことをきっかけに自分のキャリアを見つめ直し、2003年に父の会社へ入社します。
縫製の世界は右も左も分からなかったといいます。それでも、現場を見て感じたことは明快でした。
半導体も縫製も、最終的には“人の技術”で支えられていると。
異業種転身の記事はたくさんありますが、前職と現業の共通点を本人の言葉で名指しできているケースは多くありません。但馬さんはその後、入社1年半ほどで中国の生産拠点に赴任し、約5年間、現地法人の生産管理と経営全般を担当。2009年3月に代表に就任しています。
発見③ 前職が残したのは「客との距離の取り方」だった
技術ではなく営業の作法が持ち込まれた例も、はっきりありました。
千葉市・土気で75年以上不動産業を営む花澤林産興業の花澤さんは5代目です。大学・大学院では海洋建築工学を専攻し、防波堤の形状の効果検証などを研究していました。新卒で入社したのは東急不動産。4年目からは東急リバブルに出向し、マンション販売の営業をしています。そのときの自分をこう振り返っています。
どんどん売って成績をあげていくようなタイプではなく、物件の知識をお客様に提供して信頼を得ながら成約をしていくようなスタイル
大手で学んだこととして挙げているのが、広告物やパンフレットの制作内容だけでなく掲載時期の重要さ、そして直接ユーザーの声を聞けたことでした。7年ほど勤めた後、父から相談を受けて退社し、実家へ。入社当時は賃貸物件の管理や売買の仲介に加えて雑用全般もやっていたといいます。
大阪で創業68年のセントウェル印刷・中井社長は、大手に就職したいという理由でシャープに入社し、秋葉原で電卓の店頭販売をしていました。
車に乗ってあっち行ったりこっち行ったりして、人と喋ってそれが仕事になるんだったらそんな楽しいことはないな
家業に戻ってから資金も給料もなく、アルバイトをしながらの立て直しでしたが、「営業が好きだった」ことが最初の推進力になっています。のちに本を読んでマーケティングに舵を切り、ファックスDMなどを試していく展開も、前職で人と会う仕事を面白いと感じた延長線上にあります。
平野製作所の平野さんも、実はこの型です。薬学部出身で薬剤師の資格を持っていた平野さんは、リーマンショックのさなか、調剤薬局のパートと父の町工場を1週間半分ずつという形で兼業しました。そこで身についたのが「その人を助ける」という感覚で、いまの仕事にそのままつながっていると語っています。
ものづくりでも、基本的に断りたくない。
発見④ 同じ業界に見えても、中身は別物だった
「同業だから楽だっただろう」とは限りません。
岐阜県瑞穂市の丸島工務店・島戸龍史さんは、工業高校の土木科を出て建設会社に就職し、8年間サラリーマンを経験しました。父が心臓の病気をしたことをきっかけに家業へ戻ります。ところが同じ建設業でも、サラリーマン時代のメインは舗装工事、家業は土木工事でした。アスファルトからコンクリートへ。取り扱いも施工方法もまったく違い、そこは苦労したものの、父と一緒に勉強しながら成長させてもらったと振り返っています。
宮城県石巻市のマルカ高橋水産・高橋力さんも、外にいた場所は「同じ水産」でした。2011年に大学を卒業し、翌月から自社と取引のあった水産商社へ。当初は3年で戻るつもりでしたが、「これで生き延びられる」という確信が持てず、6年目まで外に留まっています。同じ業界でも、商社の立場と製造の立場では見えるものが違う。その6年が、生きたまま運んで一度も凍結させないミズダコという、業界の常識とは異なる製法の土台になっています。
東京・荒川区で創業60年以上の形山工務店の三代目・形山龍之介さんにいたっては、外で働くことを父に指定されました。高校を出て「私も入れてくれないか」と言ったところ、断られたのです。
大工をやるのであれば、他の工務店に行きなさい
そこで他所の工務店で世話になり、大工という職人の仕事に強い魅力を感じるようになります。修行を積み、個人事業主として独立してから家業へ。すんなり入れてもらえなかったことが、結果として職人としての土台をつくった、という順番でした。
発見⑤ 外にいた年数を語った人は、3〜8年に収まっていた
13本のうち、外で働いた年数をはっきり口にしていたのは4人です。並べると、こうなります。
- セントウェル印刷の中井社長:3年(「3年で切りをつけて実家に戻ろう」と決めていた)
- マルカ高橋水産の高橋さん:6年(当初は3年の予定を延長)
- 花澤林産興業の花澤さん:7年
- 丸島工務店の島戸さん:8年
数としては4人ですが、下は3年、上は8年。10年、20年と外にいてから戻った人は、この13本の中には出てきませんでした。中井社長の言い方が、その理由をよく説明していると思います。
大手でずっと働いていると、そこの働き方に慣れてやめるにやめられなくなる気もしていました
戻る覚悟がある人ほど、外にいる期間に自分で区切りを引いている。そして高橋さんのように「確信が持てるまで」と延ばした場合でも、6年で止まっています。前職を長くやりすぎないという共通点は、これから外に出る後継者にとって、かなり実務的な目安になりそうです。
発見⑥ 前職の武器が、そのまま「売り方」になった
家業に入ってから新しい商売を立ち上げた人たちは、前職や学生時代の得意分野を売り方に転用していました。
おかやまジビエ・南社長の家業は、もともと電線加工の工場でした。南社長自身は大学の工学部で画像処理を使った3次元形状計測を研究していた人です。2008年のリーマンショックと下請け業務の海外移転で工場の取引がゼロになり、経営危機のなかで社長を引き継ぎます。そこで父と交友のあった地元猟師から、地元の猪肉が味は良いのに商売として成り立っていないと聞きました。
自分が得意としていたインターネットを利用して、地元のおいしい食材をビジネスにできないかと考えたためです。
猪肉は「聞いたことはあるけど食べたことはない」という人がほとんどで、最初はまったく売れなかったといいます。そこから地元の祭りへの出店、道の駅への卸、飲食店・スーパー・百貨店への営業、催事出店と販路を広げていきました。入口はネット、出口は対面という順番です。
横浜で150年続く麹屋の五代目・小泉さんにいたっては、前職の営業経験が業種選びそのものに効いています。小泉さんが高校1年生のときに父が亡くなり、麹屋は一度閉鎖されていました。小泉さんは高校・大学を出て不動産の営業マンになります。麹とも味噌とも縁のない世界です。
そこで痛感したのが競争の厳しさでした。同業他社との競争があり、社内でも数字の戦いがある。「この不動産の世界で独立しようと思っても、俺には無理だ」。そして「競争のない世界」を探して、足元を見ます。
「あれ、麹屋なんてないよな」
調べてみると、横浜市内には自分のところ以外にもう1軒しかありませんでした。母が出した条件は「私は一切手伝わない。それでいいならやってもいい」。翌日には叔父に「教えてもらえませんか」と頼み、一度閉じた150年の家業が動き出しています。営業マンとして市場を見る目が、たまたま自分の家に眠っていた商売を見つけた、という順番でした。
発見⑦ 「継ぐつもりはなかった」から始まった人が、いちばん多い
最後に、13本を通していちばん頻繁に出てきた言葉を挙げておきます。継ぐつもりはなかった、です。
大正創業、油揚げ専門店の谷口屋・谷口誠さんは、家業を手伝いながら郵便局に勤めていました。子どもの頃は「服に油揚げの油の匂いが付く」のが嫌で、もともとは定年退職をしてから継ぐつもりだったといいます。ところが土日だけ行商に出ているうちに、話が変わりました。
お客様からは、今度はこれが食べたい、あれが食べたい。とリクエストされるんです。
そのヒントから豆腐屋を継ごうと決め、郵便局を辞めて本格的な修行を始めています。定年後の予定が、前倒しになったわけです。
調査業一筋60年の株式会社トクチョー・荒川一枝さんの入り方は、これとも違います。大学時代に興味を持っていたのは考古学で、父のほうも娘に継がせようとは思っていませんでした。ところが大学3年の頃から父の仕事に興味を持ち、ダメ元で頼み込みます。いちばん反対したのは母で、「支社に飛ばして修行させろ」と言ったそうです。それでも意志は固く、まずは調査員として3年ほど現場に立ちました。コンピューターもない時代で、文字どおり足で調査する日々。「靴の底が減る」という言い回しを実際にやってみて、本当だと思ったと語っています。
そして鎌倉彫 山水堂の小泉五郎さんは、兄が別の店を継いでいたこともあり、家を出て一般企業に就職していました。
元々この仕事をやるつもりはなかったんですね。
それでも鎌倉彫と鎌倉への愛着があり、父から手伝わないかというオファーがあったときには「もう迷わず帰ってきちゃいました」。決めていなかったからこそ、声がかかったときに動けた人たちです。
まとめ 持ち帰るものは、たいてい技術以外
13本を並べて見えたのは、次のような姿でした。
- まったく違う仕事からの転身ほど、持ち込まれるのは技術ではなく「見方」(調べる癖、疑う目)
- 前職と現業の共通点を、本人が言葉にできている人は強い
- 営業や接客の経験は、業種が変わっても「客との距離の取り方」として残る
- 同業に見えても中身は別物で、そこは入ってから学び直している
- 外にいた年数を語った4人は、3年・6年・7年・8年に収まっていた
- 得意分野は、新しい商売の「売り方」に転用されている
- 「継ぐつもりはなかった」から始まった人が、いちばん多い
家業に入るかどうかで迷っている人には、5番目がいちばん実用的だと思います。外の経験は必要だけれど、長ければ長いほど良いわけではない。
後継者を待っている側にとっては、4番目でしょうか。同じ業界から来たからといって、即戦力とは限りません。丸島工務店の島戸さんが「父親と共に勉強しながら成長させてもらった」と振り返ったように、隣接した業界からの合流にも、学び直しの時間を見込んでおいたほうがよさそうです。
継ぐ前の話は、事業承継のリアルをまとめた記事や、地方で挑戦する若手経営者のまとめでも扱っています。あわせて読むと、戻る決断の前後がひととおり見渡せるはずです。
各社のインタビュー全文はShikisaiのラジオ記事一覧からも読めます。
この記事を書いた人

Shikisai編集部
「ありのままの想いが地域と未来を紡ぐ」をコンセプトに、地域で働く経営者の想いと取り組みを取材・発信しているWebメディアです。補助金・認証制度などの記事は、行政機関の公表情報(一次情報)を編集部が確認のうえ執筆しています。
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