「継ぐつもりはなかった」——家業を継いだ地域の経営者12人に共通していたこと
Shikisaiがこれまで取材してきた地域の経営者のうち、家業を受け継いだ12人のインタビューを読み返しました。すると、業種も地域も世代もばらばらなのに、驚くほど同じ言葉が繰り返し出てきます。
「継ぐつもりはなかった」。
石材店、町工場、麹屋、工務店、酒店、燃料会社、ガラス工事会社、和菓子店。並べてみれば共通点などなさそうな12社ですが、そのほとんどが「家業とは別の道を歩いていた人」が、あるとき進路を折り返して戻ってきた会社でした。
事業承継というと、幼い頃から後継ぎとして育てられ、順番どおりにバトンを受け取る——そんなイメージがあるかもしれません。今回読み返した12本のインタビューが描いていたのは、それとはかなり違う風景です。この記事では、承継のきっかけ・外で得た経験の使い道・先代との距離の取り方・継いだ後に変えたものと変えなかったもの、という4つの角度から、経営者本人の言葉を整理していきます。
目次
出発点は「外の世界」だった——12人中10人が家業の外にいた
まず驚くのが、家業に入る前のキャリアの遠さです。
いちばん遠かったのは、大阪府柏原市の町工場・平野製作所の二代目でした。大阪大学の博士課程で取り組んでいたのは、DNAの研究。テーマは「細胞のDNAを組み替えて、いかにしてがんにならないかを追求する」というものだったと語られています(阪大でDNAを研究していた男が、大阪の町工場を継ぐまで)。金属・樹脂部品のフライス加工とは、まるで別の世界です。
名古屋市の津田硝子の三代目に至っては、そもそも家業の存在を知りませんでした。
小さい頃は、父親がガラス屋をしていることすら知らなかった。
大学卒業後は都内でガラスとまったく関係のない仕事に就いており、父からの呼び戻しを受けて名古屋の別のガラス会社で3年間修行してから自社に戻っています(機能ガラスはリサイクルできない?名古屋・津田硝子の三代目が向き合う廃材)。
北海道浦河町で53年続く神馬建設の三代目は、もっとはっきりしていました。「田舎の町を出たかった」から、進学の際に建築ではなく土木を選んだ。本人いわく「なんとなく近そうなイメージで、間違って土木のほうに行った」のだそうです(「町残し」とは?北海道浦河町で53年続く神馬建設・三代目が語る理念経営)。
岐阜県瑞穂市の丸島工務店の二代目も、工業高校の土木科を卒業後に建設会社へ就職し、8年間サラリーマンを経験しています。「当時は会社を継ごうとは思っていなかった」と明言していました(「そういえば瑞穂って花火大会ないよね」から1年。岐阜の丸島工務店二代目が地域でやっていること)。
横浜市菊名の小泉麹屋の五代目は、さらに特殊です。父が早くに亡くなった時点で店は一度閉鎖されており、本人は高校・大学を出て不動産の営業マンになっていました。麹とも味噌とも縁のない、スーツと革靴の世界です(横浜で150年の麹屋。一度閉めた家業を「競争のない世界」として継いだ五代目)。
山梨県富士河口湖町のマルシン石油の三代目は大学卒業後に静岡県の外資系燃料会社で約10年、大分県豊後高田市の老舗酒店・山城屋の7代目はベンチャー企業で働いていました。東京都・新橋の和菓子店、新正堂の3代目に至っては、義理の息子として家業に入っています。
つまり、地域の老舗を今動かしている人の多くは、一度外に出た人でした。「生まれたときから跡取り」ではなく、「戻ってきた人」が経営している。これが12本を通読して最初に見えた事実です。
きっかけの多くは「先代の体調」——予期せぬタイミングでバトンは渡る
では、外にいた人はなぜ戻ってきたのか。理由を読み比べると、少なくとも4社で「先代の体調の変化」が転機になっていました。
千葉県で創業100年を迎えた近藤石材店の五代目は、大学で建築を学び、将来は家を建てたい・建築デザインをやりたいと考えていました。ところが大学3年のときに父が急逝。母が代表に就き、本人は卒業後そのまま家業に入ります。
現場も経営も何も分からない状態からのスタートでした。
そう振り返りながら、「自分が継がなければ」という気持ちが強くなっていったと語っています(東日本大震災で露わになった墓石の弱点。人に寄り添うお墓のあり方とは?)。
丸島工務店の二代目が8年勤めた会社を辞めたきっかけも、父親が心臓の病気をしたことでした。「父親が作った会社を、このままなくすのはもったいない」——その思いが芽生えての決断だったといいます。
茨城県土浦市の佐藤酒店の4代目が代表取締役に就任したのは2022年11月。父である社長が2020年に倒れ、数年のリハビリを経て現場復帰が難しくなったことを機に代表を交代しました。「予期せぬタイミングでの社長就任」だったと本人も認めています(茨城県・佐藤酒店4代目社長が挑戦する酒店の新しい形)。
ここで大切なのは、12人とも「引き継いだ後」を語っているという点です。近藤石材店は東日本大震災で300件以上の墓石倒壊を修繕した経験から耐震の考え方を根本から見直し、佐藤酒店は日本最大級のサイクリングリゾートやイオンモールへの新規出店を続けています。バトンが渡った瞬間は選べなくても、その後どう走るかは選べる。12本のインタビューは、そろってその「後半」の話でした。
なお、承継が必ずしも親子とは限りません。マルシン石油の三代目は、30歳で山梨に戻って叔父が経営する会社に入社し、2018年に叔父から代表を引き継いでいます(燃料の需要は2011年がピークだった。山梨のマルシン石油三代目が挑む水力発電)。小泉麹屋の五代目も、技術を持っていたのは父の弟である叔父でした。「俺、やろうと思うんだけど、教えてもらえませんか」と頼んだ翌日には昼食をともにし、叔父は少し涙を浮かべて「協力するよ」と答えたといいます。
いちばんの発見:家業と無関係に見えた経験が、そのまま武器になっていた
12本を並べて最も面白かったのは、外で過ごした時間が「遠回り」になっていないことでした。むしろ、その会社の現在の強みが、外の経験から直接生えています。
平野製作所の二代目は薬学部の出身で薬剤師の資格を持っており、リーマンショック下では調剤薬局のパートと父の町工場を1週間半分ずつで兼業していました。そこで得た感覚を、本人はこう説明しています。
サービス業の一環として、対面でいろいろな人と話すことで相談に乗りやすくなる。その人を助けるという気持ち。
そしてそれが「ものづくりでも、基本的に断りたくない」という現在の姿勢に地続きになっている、と。研究者としての癖も残っていて、分からない加工方法や素材が出てくると「どうしても調べてしまう。調べずにはいられない」のだそうです。
津田硝子の三代目の環境への意識は、東京勤務時代に湘南で見た光景が原体験でした。親しくしていたサーファーの父親たちが、早朝の海から上がるときにサーフボードを片手にゴミを一掴み掴んで帰る。その「自然と、無理なく体現している」姿に感銘を受けたことが、後に会社の倉庫で「発注済みなのに仕様変更で不要になった新品のガラス」に目を留めることにつながります。断熱性能や安全性を高めた機能性ガラスは現在リサイクルが難しく廃棄処分になっている——そこに気づけたのは、サステナブルな視点を持ち帰っていたからでした。
山城屋の7代目が家業に戻って最初にやったのは、インターネットショップの制作です。それが軌道に乗ってからブランディングの再構築や営業に動き、支援した酒蔵の銘柄は一升瓶200〜300本規模から2万本へと広がりました(大分の名酒を世界へ!老舗酒店・山城屋7代目が仕掛ける、大分の魅力発信とは?)。
佐藤酒店の4代目は、家業に入りたての頃に夜勤のカラオケのアルバイトを掛け持ちしていました。「バイトでありながらマネジメントやサービスを学べた」と振り返っており、現在のTikTok発信や量り売り・角打ちといった売り場づくりの発想と無縁ではないはずです。
神馬建設の三代目の場合は、外での違和感そのものが動機になりました。土木は公共事業で、みんなのための仕事のはずなのに、現場では地元の住民から「なんでこんな仕事をしてるんだ」と言われることが多かった。転機は帰省時、家を建てたことのあるおじさんからかけられた言葉です。
「俺はこういう家が欲しい、とお前の親父に頼んだら、それ以上のものを作ってくれるんだ。ちゃんと親父のやってることを見ろ」
自分がしたかったのは、そういう「顔の見える仕事」だったのだと気づき、32歳で地元に戻っています。
兵庫県西脇市の松岡住研の三代目は、もともと大工になるつもりでいたところ、父親から「1年間、社会勉強してこい」と言われて工場で1年サラリーマンを経験し、その後に隣町の工務店へ弟子入りしました(家を建てる時は地元のレストラン、建てた後は主治医。兵庫・松岡住研の三代目が語る工務店の役割)。「1年」を先代の側から用意していた例です。
小泉麹屋の五代目に至っては、外の経験が事業の選定理由そのものでした。不動産営業で競争の厳しさを痛感し、「競争のない世界」を探して足元を見たとき、「あれ、麹屋なんてないよな」と気づく。調べてみると横浜市内で手作りの麹を作っているのは自分のところ以外にもう1軒だけ。しかも味噌を作る人がたくさんいることは子どもの頃から見て知っていた——「これだったら、やっていけるんじゃないか」というのが正直なきっかけだったと語っています。
先代との距離の取り方には、はっきり3つの型があった
承継の話でいちばん個性が出たのが、先代との関係でした。読み比べると、大きく3つに分かれます。
①ぶつかりながら、同じ方向を向く型。 松岡住研の三代目は、三代目としての苦労を聞かれて「いや、もう、いろいろありましたね」と笑いました。父も自分も職人で負けず嫌い。「言われたら言い返して、何度もぶつかった」。それでも続いた理由も語られています。「ものづくりに関してはお互いすごく真面目で、いかにお客様にいいものを作って喜んでもらうかという方向は同じだった」から、と。
②あえて違う型を選ぶ型。 丸島工務店の二代目の先代は、いわゆる昭和のスタイルでした。「人になめられるな。一発かましておけ。上から行け」。それに対して本人は「そんなの違うだろう、とずっと思っていた」と言います。対人間の付き合いなのだから、対等・平等でないと付き合いにくい——温厚さを自認するこの二代目が地域で23人のボランティア団体を立ち上げられた理由も、そこにあるように読めます。
③言葉ではなく、仕事から受け取る型。 近藤石材店の五代目は、父と一緒に現場に立つ機会がありませんでした。それでも手がけた墓石を見るたびに「この加工はこうやって仕上げたのか」「ここに父らしさが出ているな」と感じるといいます。
言葉で教わったわけではなく、石そのものが仕事の丁寧さや想いを伝えてくれます。
100年残るものをつくる以上、その石を見た人に「近藤が手掛けた仕事だ」と分かってもらえるような責任と誇りを持って取り組んでいる、と続けていました。
どの型がよい・悪いという話ではありません。ただ、先代との関係を言語化できている人ほど、自分が何を引き継ぎ、何を引き継がないのかがはっきりしているというのは、12本を通した実感です。
継いだ後に「変えたもの」と「変えなかったもの」
継いだ人は、たいてい何かを変えます。ただし全部を変えているわけではありません。
変えたものは、大きく「売り先」と「商品」の2種類でした。
丸島工務店の二代目は受注構成そのものを組み替えています。もともと売上の約8割が公共工事でしたが、公共事業の予算は今後減っていくという見立てから民間の受注を増やし、現在は公共4割・民間6割ほど。営業は「比較的あんまりしない」そうで、多いのは紹介です。「紹介されたということは、こちらを信用してもらえているということ」という受け止め方が印象的でした。
マルシン石油の三代目は、燃料の世界が2011年のピークから右肩下がりだという現実の中で、10年がかりで小水力発電に手を伸ばしています。「燃料屋としては珍しく、水力発電所を手がけたい」——その構想が「なんとかあと一歩のところまで進んできている」段階だといいます。
新正堂の3代目は、和菓子の炊き方や製法、デザインを改良し、うまくいかなかったものを含めて約120種類の商品を開発したと語っています。伝統的には小豆を一晩水に浸けてから炊きますが、同社では沸騰したお湯に直接小豆を入れて短時間で炊き上げる。「鎌倉時代から続く方法・伝統というのに固執するのは合理的でないと思いますね」という言葉は、老舗の3代目のものとしてはかなり踏み込んでいます(和菓子の伝統と革新について、新正堂3代目の和菓子職人・渡辺仁久が語る)。
近藤石材店の五代目は、母の代までホームページがなかった会社でネット戦略を始め、問い合わせが増えています。同時に、震災の経験から墓石の固定方法をセメントから石材専用ボンドやコーキング剤へ切り替え、耐震性を高めました。
一方の変えなかったものは、判で押したように「お客様との関係」でした。
松岡住研の三代目は、地場工務店の役割を2つの比喩で説明します。「家を建てる時は『地元のレストラン』。家を建てた後は『お客様の主治医』」。施工エリアを事務所から車で約1時間圏内と決めているのも、営業効率ではなく「家に不具合やトラブルが発生したときに、すぐ駆けつけられないと困るから」でした。
マルシン石油の三代目が心がけているのは、驚くほど素朴な一点です。「お客様を、お客様として扱う」。薄利多売の商売だからこそ、そこが信用・信頼になっていくのだろう、と。
近藤石材店の五代目も「お客様が亡くなっても、その家族がまたうちに頼んでくれる——そんな信頼関係を築ける会社でありたい」と語っていました。売り先も商品も入れ替えながら、関係だけは持ち越す。それが12社に共通する承継の実像でした。
承継は一度きりではない——次に渡す準備は、もう始まっている
最後に、少し先の話をしていた会社を挙げておきます。
福島県で発電所のメンテナンスを手がける吉田工業は、いま若手職人の育成と採用に最も力を入れています。理由は仕事の性質です。タービンの部品は大きいもので長さ12メートル・重さ200トン。特殊な作業が多く、一人前になるのに10年かかる。25歳で入社しても一人前は35歳です。社員の平均年齢が40代を超えたことと合わせ、「いまのうちから若い世代に技術を継承しなければならない」という危機感が語られていました。
同社はこれまで採用のほとんどが中途で、新卒はゼロ。そこで人事部を新設し、今年4月に初めて新卒3人が入社しています。学生に対しては職場見学で実際の作業をスライドで詳細に説明したうえで、「辛いのがほとんどだよ」と隠さずに伝えるそうです(有限会社吉田工業とは?福島のタービン屋が語る、200トンの分解と技術継承)。
丸島工務店の二代目が代表就任で最も変えたのも、実は次世代のためでした。それまで社員と一緒に作業することが多かったのを、意識的にやめています。
僕が出ることによって、社員の成長を妨げる部分もある。
理由は明快で、「僕が行っちゃうと、僕は一から十までできちゃうんで」。だからある程度任せてやらせてみる。「一歩引いた目線で見ることが、一番大切なのではないか」という言葉で締めていました。
松岡住研の三代目が「年間どれだけ仕事をこなせるかを、きっちり決めている」のも同じ発想です。基準は「自分の目が行き届く範囲内で仕事をこなす」こと。それが品質・信頼・その後のメンテナンスにつながる、と。
12本を読み終えて
事業承継という言葉には、どうしても制度や税務の響きがあります。けれど12人のインタビューが語っていたのは、もっと手触りのある話でした。
継ぐつもりがないまま外の世界で身につけたものが、戻ってきた瞬間にその会社の武器になる。先代とぶつかった経験が、自分の型をつくる。そして、変えるものと変えないものを自分で決めた人が、次の代に渡す準備を始めている。
150年の麹屋を一度閉じてから再開した人も、義理の息子として和菓子の老舗に入った人も、叔父から燃料会社を受け継いだ人もいました。承継の入り口はひとつではありません。共通していたのは、入り口がどうであれ、入った後に自分の言葉で会社を語り直しているという点でした。
Shikisaiでは今後も、地域で事業を受け継ぎ、育てている方々のお話を伺っていきます。ラジオ番組から生まれたインタビュー記事はこちらのアーカイブからまとめてお読みいただけます。
※本記事は、Shikisaiがこれまで公開したインタビュー記事・ラジオ記事の内容を編集部が再編集したものです。役職・数値・進捗は各記事の公開時点のものです。
この記事を書いた人

Shikisai編集部
「ありのままの想いが地域と未来を紡ぐ」をコンセプトに、地域で働く経営者の想いと取り組みを取材・発信しているWebメディアです。補助金・認証制度などの記事は、行政機関の公表情報(一次情報)を編集部が確認のうえ執筆しています。
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