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第215回

「会社を売る」のではなく、「後継ぎを迎える」——価格だけではなかった、三代目経営者が選ばれた理由|旭東ホールディングス株式会社・田口貴之

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後継者のいない会社が、第三者に会社を譲る。それは「会社を売る」ことなのだろうか。それとも、「後継ぎを迎える」ことなのだろうか。

第三者への承継では、企業価値を算定し、譲渡条件を詰めていく。それは欠かせない手続きだ。一方で、長年会社を率いてきたオーナーにとって、譲り受ける相手は取引相手であると同時に、自分のあとに会社を担う存在でもある。条件が整ったとしても、「この人に後を任せてよいのか」という問いは最後まで残る。

旭東ホールディングスの田口貴之さんは、2026年3月、調味料メーカーやアイスクリーム機械の会社など、4件の譲り受けを行った。田口さん自身、「金額で言えば、ベストな金額を提示した会社ではないと思います」と話す。

それでも、あるオーナーは「君は30年前の俺と一緒だ」と言い、別のオーナーは田口さんから届いた手紙を読んで、旭東への譲渡を決めた。田口さんは、会社を譲り受ける際、オーナーに「僕のことを息子だと思ってください」と伝えているという。

田口さん自身、1955年創業の食品添加物メーカーを継いだ3代目だ。コロナ禍で父と初めて経営方針が割れ、会社の舵を引き受けた。厳しい決断によって社員が離れていく経験をしながら、経営の数字を全社員に開き、利益を社員に還元する仕組みをつくった。就任初年度に670万円だった営業利益は、5年間で6億8,700万円になった。

後継ぎとして会社を守る難しさを知る人が、今度は後継者のいない会社を引き受ける。そのとき、何を受け継ぎ、何を変えるのか。田口さんの言葉から紐解いていく。

「祖父がつくった会社を継いで、社長になる」——小学2年生の作文

——まず、簡単に自己紹介をお願いできますか。

田口: 旭東ホールディングスの田口と申します。食品添加物メーカーの3代目の後継として生まれました。その会社を引き継いで経営改善をしていく中で、同じ改善のパッケージを同業の会社にも当てはめられるのではないかと考え、旭東ホールディングスを設立しました。今は、後継者がいない企業の譲り受けを行っています。

——家業としては、かなり歴史の長い会社なんですね。

田口: 1955年に祖父が創業したメーカーで、今年で72年目を迎えます。祖父が最初に始めたのは、CMC(カルボキシメチルセルロース)という素材でした。繊維のような素材で、創業当時はシーツやシャツをパリッとさせる糊剤として使われていたんです。

祖父は当時アメリカに視察に行き、CMCが糊としてだけではなく、食品、特にアイスクリームの食感をつくるために使われていることを知りました。日本で最初に導入したかどうかまでは把握していませんが、広めた一人であることは間違いないと思います。

——そこから、どのくらいの規模になったんですか。

田口: 始まりは祖父と祖母の2人でした。時流に乗って少しずつ成長してきて、今はグループ総勢で175名ほどの会社になっています。

※収録時点

——お父さまが2代目。その背中を見て、自分も継ぐというイメージはあったんですか。

田口: 小学校2年生のときの作文に、「僕は祖父がつくった会社を継いで、将来社長になるんだ」と書いていました。お店の子どもが店に立つのと同じように、家業の息子が家業を継ぐと思うのは、僕の中ではごく自然なことだったんです。

継ぐ以外の人生を夢見たことは、逆にありません。そのために何ができるか、何をすればいいかを、逆算して考えていました。

中小企業のオーナーに、一番早く会える仕事を選んだ

——社会人としての最初の仕事は何だったんですか。

田口: 新卒で野村證券に入り、4年半勤めてから家業に入りました。

——野村證券を選んだ理由は。

田口: 中小企業の後継者としてオーナーになるのであれば、社会に出た最初から中小企業のオーナーに会える仕事に就こうと考えました。私が思いつく限り、私の学歴で行けるところで言うと、証券会社だったんです。実際に入社してからも、中小企業向けの営業をしていました。

——そのときの経験で、今一番生きていることは何ですか。

田口: お客様の多くが中小企業のオーナーさんでした。お話を聞いていると、後継者がいないことに悩まれていたり、後継者はいても本人に継ぐ気がなかったり、親の側に継がせる気がなかったり。あるいは、相続税や贈与税、自社株の評価の高さに悩まれていたり。

オーナーさんの悩みは、ほとんどが事業承継なんだと実感しましたし、その課題に対してコンサルティングをしていたことが、入社当時の私には非常に勉強になりました。逆算して選んだ仕事でしたが、振り返ってもあのとき勉強していたことが役に立っています。

入った瞬間、何も動けない自分に気づいた

——家業に入られたのはいつですか。

田口: 2017年です。当時は野村證券の別の部門で、M&Aやファイナンスの世界を勉強していました。もう少しそこでやりたい気持ちもあったんですが、父が体調を大きく崩したタイミングがあって。そろそろ戻らないとまずいよね、と双方で話して、退職を決めました。

——食品添加物の会社は、畑違いの世界ですよね。最初はどんな苦労がありましたか。

田口: 最初に配属されたのは、東京工場の製造担当でした。正直、そのときは少し調子に乗っていたんです。野村で活躍したぞ、投資銀行部門に行ったぞ、という気持ちで入って、製造の仕事を少し下に見ていたところがありました。

ところが入った瞬間、何も動けない自分に気づくんです。製造の担当者の皆さんはキビキビと動いているのに、僕は製品を覚えるのも、原料を覚えるのも、何一つできない。本当に衝撃を受けました。

——その衝撃のあと、何が変わりましたか。

田口: 製造は体を動かす仕事だというイメージがあったんですが、そうではなく、頭を使わないとできない仕事なんだと。製造という仕事に対する価値観が変わりました。

それから、物理的に自分の商品を持つという経験を、それまでしたことがなかったんです。開発をして、物をつくって、販売して、流通させる。物を持つビジネスは、すごく尊いと気づきました。

製造現場の皆さんと一緒に物づくりをしながらコミュニケーションを取り、その後は開発研究所、物流センター、営業本社と回って、少しずつ信頼関係の輪が広がっていきました。

30年一緒に生きてきた父と、初めて意見が割れた

——2021年に、旭東化学産業の代表取締役社長に就任されています。そのタイミングには何があったんですか。

田口: コロナで、ロックダウンが始まった時期でした。製造もできない、出社もできない。業界によっては、売上が前年の1割しか残らないような状況でした。物はつくれない、売上も立たない、でも費用だけはかかっていく。お金だけが出ていく状況だったので、なんとか止血をしなければいけませんでした。

その止血のレベル感について、父と私の間に少し差があったんです。私のほうが、もっと厳しく、タイトにやらなければいけないと考えていました。約30年一緒に生きてきて、親子で初めて意見が割れました。

そこで父に、「向こう30年、会社を守っていくのは自分です。この大災害のときは、僕に舵を預からせてください」と話しました。最後に責任が降りかかってくるのは自分ですから。そうして社長に就任しました。

「あなたのことは信じてるけど、会社のことは信じられない」

コロナ禍の決断を振り返る田口貴之さん

——社長に就任して、最初に何をしたんですか。

田口: まず、オーナー自身が身を切る覚悟で臨まなければいけないと思っていました。父と意見が割れた一番のところも、そこです。

そして、申し訳ないけれども、従業員の賞与を大幅に減らしました。コロナ前は7か月分以上出ていた年間賞与を大きく絞り、それを2年続けました。

そうすると、製造現場で最初に仕事を教えてくれた先輩社員や、一緒に飲み食いした若手から、どんどん辞めていくんです。若い人から辞めていく。

「貴之さん、あなたのことは信頼していたけど、社長になったらこうやって切り捨てるのね」「あなたのことは信じてるけど、会社のことは信じられない」。子どもにクリスマスプレゼントも買えなかった、という話もされました。

当時は心が痛みました。それでも、赤字にさせない、会社を潰さないことのほうが優先でした。

なぜ、業績を全社員に開示したのか

——コストカットだけでは、モチベーションはついてこないですよね。ほかにどんな手を打ったんですか。

田口: 社員がそう思うのには理由がありました。当時、うちの会社では業績の開示を全くしていなかったんです。

売上や利益を共有したら、社員は給料を上げろと言うだろう。何に経費を使っているんだと責め立てるだろう。経営陣が不利になるような情報は与えるべきではない。父は、そういう考えを持っていました。

でも、経営の数字が見えていれば、財務状況が分かる。財務状況が分かれば、どれくらい還元できるのかも理解してもらえる。だから最初にやったのは、今の業績がどういう状態なのかを毎月共有することでした。月末で締めたら、翌月の2営業日目に月次会を開いて、全従業員を集めて情報を共有する。それまでの65年間とは全く違うやり方です。

——従業員の方の反応は変わりましたか。

田口: 共有されていること自体が、信頼につながっていると思います。この経営者は嘘をつかない、と。今月でちょうど66回目を終えたところです。毎月業績を共有するのは当たり前のことですが、中小企業でやっているところは少ないのではないでしょうか。

※回数は収録時点

粗利の取れない製品は、登録できない

——数字が見えるようになって、何が起きたんですか。

田口: 粗利が取れていないということが、皆さんの中に浸透していきました。そこで、価格交渉をしっかりしよう、付加価値のある製品を開発しよう、と。売上を追うビジネスから、粗利を追うビジネスに転換していったんです。実際に、粗利率は5年間で10数ポイント改善しました。

——一番効いた施策は何だったと思いますか。

田口: 価格のルールを決めたことです。この粗利率未満では製品登録できません、というルールを決めました。粗利を下回る製品は廃止していきます、と。そういう制限を加えたので、皆さんが「じゃあ値上げしよう」「価値のある新商品をつくろう」「交渉をしっかりしよう」という意識になりました。

——それまでは、十分な粗利が取れなくても、取引の継続や工場の稼働を優先していたんですね。

田口: 始めたときは、「そんなことをしたら、このお客さんは離れてしまいますよ。取引がなくなりますけど、いいんですか」と、逆に脅されるくらいのことを言われました。でも、そうなったら仕方ないから行ってみようと言って行ってみたら、意外と受け入れてくださったり、理解を示してくださったりしたんです。彼らにとっても、自分たちが思い込んでいたバイアスを解くきっかけになったのではないかと思います。

メーカーはどうしても工場の稼働を意識しすぎるあまり、安く受けて数量をもらおうとしがちです。そこを転換して、しっかり単価をいただける仕事で稼働を回していく。そういう考え方に逆転していきました。

稼いだ営業利益の35%は、社員に返す

——稼いだ粗利は、どう使っているんですか。

田口: 稼いでくれた粗利は、僕がポケットに入れるのではなく、営業利益の35%を社員に還元するというルールを決めました。僕が勝手に使うこともありません。稼いだ分が、しっかり賞与として社員に返る仕組みができてきました。

——数字は、実際にどう変わりましたか。

田口: コロナで一番落ち込んでいた、私が社長に就任した初年度は、営業利益670万円。なんとか黒字になりました、と銀行さんに報告に上がりました。そこから5年間で、営業利益は6億8,700万円になりました。

——100倍。嘘みたいな数字ですね。コロナ前の平均はどのくらいだったんですか。

田口: コロナ前の平均的な利益は、5,000万円ぐらいでした。

——それと比べても、13倍を超えていますね。

この改善は、ほかの会社でも再現できるのか

——そこから、M&Aを積極的に進めるようになった。その発想の転換には何があったんですか。

田口: 旭東化学産業での経営改善には、もしかしたら汎用性があるのではないかと、だんだん思うようになりました。当時、グループにはコウシン化学工業という会社が1社だけあったので、そこにも同じ形で経営改善の手法をインストールしていったんです。

すると、3年間で営業利益が6.8倍になり、従業員への賞与支給総額も1.3倍になりました。これは再現性があるかもしれないと思ったのが、2024年です。そこから1社目の譲り受けを実行しました。

それも同じように改善していくことができ、だんだん実感として自信になっていきました。そして2026年3月に、4件の譲り受けを行いました。

——4件。すごいスピードです。すべて食品の会社なんですか。

田口: 領域としては、食品添加物や副原料をつくる会社がメインです。残りは食品機械で、具体的にはアイスクリームを製造する機械や、アイスクリームを店舗に並べるショーケースを扱う会社です。食品機械と原材料の2つのジャンルをやっています。

——思い切りましたね。アクセルを踏んだ背景には何があったんですか。

田口: 4件やろうと思ってやったわけではないんです。いい会社、いいオーナーさんと交渉していたら、たまたま3月にまとまった。いい会社と巡り合えて、彼らもうちを選んでくれた。そのタイミングが重なったということです。

売り手のオーナーは、なぜ田口さんを選んだのか

——売り手側も選んでくれた、という話がありました。どんなところを見て選んでもらったんでしょうか。

田口: 2つのグループがあるので、それぞれお話しします。

1つ目は福南食品工業という、東京で餃子のタレやソースといった調味料をつくっているメーカーです。70代のオーナーさんが、「君は30年前の俺と一緒だ」と言ってくださったんです。「あなたがやろうとしていることは、俺が30年前にやりたかったことなんだ。ただ、当時は事業を譲り受けるという環境がなかった。だから新規事業をやろうとしたけれど、なかなか伸びきらなかった」と。それもあって、弊社に決めたと聞いています。

もう1つは、アイスクリーム向けの製造機器を手がけるUNOのグループです。こちらのオーナーさんは、田口に預けていいのか、最初は迷っていらっしゃいました。トップ面談のあとに、野村時代にもよく書いていた手紙を書いてお送りしたんです。最後は「その手紙で、あなたに決めたよ」と言ってくださいました。非常にありがたかったです。

——ほかにも、売り先の候補はあったんですよね。

田口: それぞれ、上場企業も含めて複数の会社と協議をしていたようです。おそらく、うちは金額で言えばベストな金額を提示した会社ではないと思います。それでも、オーナーさんの期待や思い、あるいは従業員を引き継いでくれるのはどこか、となったときに、若いけれど頑張ってくれそうだと、選んでくださったのだと思います。

——ご自身が3代目として家業に入り、悩みながら改善してきたことも、共感されるポイントなのかもしれませんね。

田口: そうですね。僕は生まれたときから後継ぎの3代目で、父とどうしようかと悩みながらやってきました。だからオーナーさんには、「僕のことを息子だと思ってください」とお話ししています。

72年で初めて、家族以外の株主を迎えた

——今後、どんなビジョンを描いているんですか。

田口: 一番目の前の話で言えば、まずは株式市場に上場することです。社会の公器として、より一層認められる存在になりたいと思っています。そのために、初めて外部の株主、ベンチャーキャピタルから資本をお預かりする決断をしました。72年の歴史で初めて、家族以外の株主を迎え入れたんです。

——70年以上続くオーナー企業で、その決断をする会社がどれだけあるのか。何がそうさせたんですか。

田口:私は今35歳です。2055年に会社は創業100周年を迎えます。仮にその頃に引退するとして、中小オーナー企業の延長線でやった場合、売上数百億円の会社はもしかしたらつくれるかもしれない。一方で、もう1桁上の、1,000億円、数千億円という世界には、多分自分の力ではたどり着かないと思ったんです。

それなら、上場を目指し、外部の株主の方に入っていただいて、レベルの高い議論をしてもらいながら、僕自身も経営者として成長していくほうが、従業員にとってもいい。振り返ったときに、そのチャレンジをしたほうが人生を後悔しないのではないかと思いました。

今はDual Bridge Capitalさんに入っていただいて、その知見をお借りしながら、これまでとは異なる企業経営を学び、新たなスタートを切ったところです。

目指すのは、加工食品の「インテル入ってる」

——数千億円の規模になったとき、どんな企業体になっているイメージですか。

田口: 旭東ホールディングスとしてのビジョンは、加工食品のインフラになることです。パソコンで言えば、「インテル入ってる」というCMがありましたよね。どのパソコンにも、必ずインテルの基盤が入っている。そういう状態を、加工食品の世界でつくりたいと思っています。

コンビニや量販店に並んでいる食品のどこを見渡しても、旭東グループのどこかの会社が、裏方としてそのメーカーの物づくりに貢献している。そんな存在になれたらいいなと思っています。

美味しいものを安く、広く、手軽に、そして安全に流通させるためには、副原料や食品添加物の役割は非常に大きいですし、食品機械によって、衛生的かつ安全に製造できることも、量産と流通には欠かせません。今は、その分野に水平に、あるいは垂直に手を広げているところです。

——1年前は、まだこうなっていなかったわけですよね。社内は大変なことになっていませんか。

田口: 事業会社の社員は、それぞれの持ち場で淡々と、腰を据えてやってくれています。一方でホールディングスは、まだ0→1のフェーズです。これからチームをつくっていきたいので、興味を持っていただいた方には、ぜひうちのドアをノックしてほしいです。

——具体的には、どんな人を求めていますか。

田口: コーポレート部門と、M&Aやバリューアップを担うチームを編成していきたいと思っています。経営に興味がある方、M&Aに興味がある方、事業承継というテーマに関心のある方には、ぜひお声がけいただきたいです。

——最後に、ここまで聞いてくださった方へメッセージをお願いします。

田口: 私たち旭東ホールディングスは、食のインフラになることをビジョンに掲げ、これから事業承継に困っている食品メーカーさんを広く引き継いでいきたいと思っています。食という決まった領域ではありますが、企業の譲り受けやM&A、経営のバリューアップに関心をお持ちの方がいらっしゃいましたら、弊社のホームページや私のSNSなど、どこかからご連絡をいただければ幸いです。

収録の終わりに笑顔を見せる田口貴之さん

編集後記

「あなたのことは信じてるけど、会社のことは信じられない」
田口さんが社長に就任し、コロナ禍で賞与を大きく減らした時期に、社員から向けられた言葉だ。
経営者の人柄を信頼できても、新しい経営のもとで自分たちの処遇がどう決まるのかは分からない。田口さんが経験したのは親族間の承継だったが、この不安は、第三者に会社を譲るときにも重なる。
譲渡契約のなかで、従業員の雇用を守ることを約束してもらうことはできる。しかし、譲渡後に処遇がどう決まり、職場でどのような言葉が交わされ、会社がどこへ向かっていくのかまでは、契約書に書き切れない。最後は、譲り受ける側がこれまでどのような経営をしてきたのかを見て、判断するしかない。

田口さんの5年間は、その判断材料になる。
月末で締めた業績を、翌月の2営業日目に全社員へ共有する。営業利益の35%を社員に還元すると先に決め、利益がどのように社員へ返るのか、その基準を明らかにする。田口さんが行ってきたのは、社員の処遇を経営者の人柄だけに預けるのではなく、その決まり方を社員から見える仕組みに変えることだった。
その結果、旭東化学産業の営業利益は670万円から6億8,700万円へ伸びた。同じ考え方を取り入れたコウシン化学工業でも、3年間で営業利益が6.8倍になり、社員への賞与支給総額は約1.3倍になった。

田口さん自身は、譲り受けにあたって、最も高い金額を提示したわけではないと見ている。それでもオーナーから返ってきたのは、「君は30年前の俺と一緒だ」「その手紙で、あなたに決めたよ」という言葉だった。
何が最終的な決め手になったのかは、譲った側のオーナーにしか分からない。ただ、その言葉が向けられているのは、譲渡条件ではなく、田口さんという人と、その先にある経営の姿勢だと思う。
会社を譲るとき、株式とともに、そこで働く人たちの暮らしも次の経営者に託される。だから譲り受ける側に問われるのは、いくらで買うかだけではない。譲り受けた後、その会社をどう経営するのか。そして、その考え方を言葉だけでなく、過去の実践として示せるかどうかだ。

旭東ホールディングスは今、M&Aと譲受後の経営改善を担うチームをつくろうとしている。求めているのは、案件を成立させるだけの人ではない。受け継いだ会社の歴史や仕事を理解し、そこで働く人たちと、承継後の時間に責任を持つ人だ。

後継ぎとして会社を託された田口さんが、今度は会社を託す人たちから選ばれる。その理由は、「この人なら、譲った後の会社を任せられる」と思える経営を、すでに積み重ねてきたからなのかもしれない。

(編集部・石川)

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ご紹介

Profile

田口 貴之

旭東ホールディングス株式会社
代表取締役

田口 貴之

たぐち たかゆき

X(旧:Twitter) Youtube

1991年生まれ。1955年創業の食品添加物メーカー・旭東化学産業の創業家3代目。
新卒で野村證券に入社し、中小企業オーナーへの営業やM&A・ファイナンスの業務を経験。
2017年に家業へ入り、東京工場の製造担当を皮切りに開発・物流・営業を経て、2021年に旭東化学産業の代表取締役に就任。
コロナ禍での経営改善をもとに、後継者のいない食品関連企業の譲り受けを進め、2026年3月には調味料メーカーやアイスクリーム機械の会社など4件を譲り受けた。
持株会社の旭東ホールディングスのもと、グループ7社を率いる。

旭東ホールディングス 旭東化学産業 noteはこちら
石塚 直樹

株式会社ウェブリカ
代表取締役

石塚 直樹

いしづか なおき

新卒でメガバンクに入社し、国土交通省、投資銀行を経て独立。
腕時計ブランド日本法人の立ち上げを行い、その後当社を創業。
地域経済に当事者意識を持って関わりながら、様々な企業の利益改善や資金調達を、デジタルや金融の知見を持ってサポートしています。

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