オーベルジュ飛騨の森で感じたこと【編集後記】

オーベルジュ 飛騨の森

Auberge Hida no Mori

岐阜県

正しい選択をしてきたはずだった。
少なくとも、自分ではそう信じて生きてきた。

情報を集め、比較し、納得して選ぶ。
進学も、就職も、働き方も。
「間違っていない理由」を積み重ねることで、自分の選択を正解にしてきた。
それなのに、どこかに小さな違和感が残る。
大きく間違ってはいない。後悔しているわけでもない。
けれど、不安が完全には消えきらない。

この感覚の正体を、私は長く言葉にできずにいた。
そして、この場所で初めて、それに輪郭を与えようとしている。

私たちは、説明されすぎている

人が価値を感じる場所とは、何だろうか。

私たちは多くの価値を、あらかじめ比較可能な指標として理解しようとする。
訪れる前から、SNSや口コミサイトで情報を集め、評価を確認し、写真を見て、
「きっとこういう体験なのだろう」と想像した上で、その場所へ向かう。

迷わないために。失敗しないために。
これは合理的で、効率的な行為だ。みんな時間を無駄にしたくない。

現代のサービスは、とても親切だ。
おすすめがあり、評価があり、どう楽しめばいいかが、あらかじめ共有されている。
だが同時に、
私たちは「どう感じるか」まで、先回りして受け取ってはいないだろうか。

美味しかった理由。すごかった理由。感動すべきポイント。
それらを確かめた瞬間、私たちは安心する。
「ちゃんと楽しめた」と。

記憶に残る場所は、感情と結びついている

改めて、自分の記憶を辿ってみる。
強く残っている出来事の多くは、感情と深く結びついていることに気づいた。

・試合に負けて悔しくて泣いた瞬間。
・無邪気に走り回っていた子どもの頃。
・最も古い鮮明な記憶は、四歳の頃、幼馴染と漫画のキャラクターになりきって遊んでいた場面だ。

その時の情景は鮮明に覚えている。

一方で、
そのときは楽しいと思っていたはずなのに、今振り返ると、ほとんど覚えていない時間もある。
当時は楽しいと自分に言い聞かせていた、若しくは楽しそうな場の空気に合わせていたのだと思う。

感情が動いていない体験は、記憶として定着しにくい。

改めて、場所の価値とは、そこで「何が起きたか」ではなく、そこで「何を感じたか」によって決まるものだと思う。

感じ方は、人によって違う。
同じ時間を過ごしても、心が動く場所も、その理由も、同じにはならない。
だからこそ、記憶に残る場所の価値は、最初から一つの言葉に定義できないのだと思う。

説明されないまま、体験が始まる

オーベルジュ飛騨の森では、
体験の意味づけを先回りして与えられることが、ほとんどない。

料理の背景も、ワインの知識も、最初には明かされない。
味わった後に、後から知ることがある。

先にあるのは、「どう感じたか」だけだ。
だから、美味しいと感じた理由を、どこかの言葉に預けることができない。

「これは評価の高い料理だから」
「これは高価なワインだから」

そう言って安心する前に、自分の感覚が先に立ち上がる。

ここでは、感じ方を誘導されない。
正解を教えられない。
判断を預けてきた物差しが、静かにこちらへ戻ってくる。

“感動”って、なんだっけ?

感動とは、期待を超えた体験をしたときに生まれるものだ。
そう言われることが多い。

予想以上だった。想像していたよりすごかった。だから心が動いたのだ、と。

本当にそうだろうか。

私たちは体験する前から、無意識のうちに前提を抱えている。
「この場所は、きっとこういうものだ」
「この料理は、きっとこう味わうものだ」
その前提がある限り、体験は想像の延長線から外れない。

オーベルジュ飛騨の森では、どう感じるべきかも、どこに注目すべきかも、
前提があらかじめ用意されていない。
だから、ここで生まれる感動は、
「期待を上回った結果」というより、ある意味「期待から”外れた”」ところで、ふいに立ち上がる。

料理の名前も、ワインの銘柄も、背景も知らないまま、
ただ一口食べたときに、理由もなく心が動いた。

あの感覚に、あとから言葉を当てはめるとしたら、感動とは、誰かによって言葉で設計されるものではなく、自分の内側が触発され、いつのまにか心が動いてしまう現象なのだと思う。

楽しく生きる、ということ

「楽しく生きよう」という言葉は、あまりにも広く、そして軽く使われている。

好きなことをしよう。
無理をしないで生きよう。
自分らしく、自由に。

どれも間違ってはいない。
だが、その言葉が軽く聞こえてしまうのは、
「楽しい」という感情が、簡単に消費されているからだと思う。

忙しない日常の中で、「楽しい」「違和感がある」といった感情は、真っ先に後回しにされていく。

どう感じたのか。

それを誰かの言葉で代弁できないから、自分で確かめるしかない。

正解っぽい言葉や、効率のいい選択に自分を合わせていくうちに、
本当はどう感じているのかを、確かめる前に進んでしまう瞬間がある。

オーベルジュ飛騨の森で感じた楽しさは、
そうした「分かりやすさ」とは少し違っていた。
ここでは、判断を委ねられる場所が、最初から用意されていない。
楽しいかどうか。また来たいと思うかどうか。
それを決めるための言葉も、代わりの基準も、渡されない。
だから、自分がなぜ惹かれたのかを、自分で確かめるしかない。
気づけばやっていた。後から理由を探す。そんな順番の選択が、確かに存在することを思い出す。

そして、その選択を、誰かの評価に預けるのではなく、自分の時間として引き受けていく。

それは、「正しかったかどうか」を証明することではない。
自分で選んだ、という事実から逃げないことだ。

選択に責任を持つというのは、不自由になることではない。
判断を他人に委ねなくて済む、という意味で、むしろ自由に近い。

その積み重ねの先にしか、他人の基準に左右されない、輪郭のある「楽しさ」は残らない。

記憶に残る場所が、教えてくれること

オーベルジュ飛騨の森は、
価値を説明する場所ではない。
正解を提示する場所でもない。

代わりに、自分の感覚がまだ機能しているかを、静かに問い返してくる。

記憶に残る場所の価値は、定義できない。平均化も、再現もできない。
だからこそ、人から人へ、「体験」として渡っていく。

「とりあえず行ってみて」
「行けば分かるから」

そんな不完全な言葉でしか、語れないまま。

だからこそ、この場所は、広告コピーと相性が悪い。
「こういうことが特徴です」とは言えないし、「こういう人に刺さります」とも、正確には言えない。

オーベルジュ飛騨の森のHPには、こう書かれている。

「あるのは森と新鮮な空気だけ」
オーベルジュ飛騨の森には、多くのものがありません。
部屋にはTVもなければ、特別なアクティビティもありません。
周りには、大きな公園があるだけです。
オーベルジュ飛騨の森では、食べて、飲み、寝ることを大切にしています。

この言葉の意味が、体験を終えてから、ようやく腑に落ちた気がした。

あえて言うなら、
ここは、楽しいかどうかを、自分自身で感じなければならない場所である。

誰かが決めた良し悪しでもない。
点数とかレビューでもない。
「こう感じるはずだ」という説明も、ここにはない。
残るのは、自分はどうだったか、という感覚だけだ。

それを引き受けることは、少し面倒で、人によっては、不安でもある。
けれど、その感覚から目を逸らさない限り、体験は他人事にならず、確かな手触りとして残る。

だからこの文章も、正解として読まれる必要はない。
共感できなくてもいいし、ピンと来なくてもいい。

ただ、もしどこかで引っかかったなら。
それは、この場所が向いているサインかもしれない。

オーベルジュ飛騨の森は、料理や宿泊を「わかりやすい価値」として提供する場所ではない。

ここで起きているのは、価値そのものを教えられることではなく、
自分の感覚が、まだ生きているかを確かめる時間だ。

悔しいが、メディアとしてできることは、多くない。この体験を、正確に説明できない。
ただ、体験した一人として、書き手として言えることがある。
ここでは、理解より先に、感覚が残る。
「どうだったか」という、自分にしか答えられない感触だけが、手元に残る。

それで十分だと思えるかどうか。その問いを抱えたまま、日常へ戻っていく場所である。

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