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塚本鋼平(ゼロワンバスケットボール)とは?オウンゴールから始まったバスケ人生

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前編

後編

小学校時代、ミニバスで“オウンゴール”を決めてしまった――
そんな悔しさから始まった、塚本鋼平氏のバスケットボール人生。

やがて彼は、スラムダンクの“山王工業”のモデルとして知られる名門・能代工業高校との対戦を経験。
名将との出会い、そして「高さ」という絶対的な壁に挑む日々。
幾多の挫折と学びを経て、たどり着いたのは「育てること」に人生を懸けるという覚悟でした。

本番組では、学校のバスケ部顧問としてのスタートから、プロチームの指導、さらには日本代表選手の育成にまで携わってきた塚本氏の軌跡をたどります。

“育てる”とは、ただ技術を伝えることではない。子どもたちの可能性を信じ、共に悩み、導くこと。
塚本氏は「育てる力こそが、未来を変える力になる」と語ります。バスケを通じて人を育てるとはどういうことなのか。
地方から全国、世界、そして次世代へとつながる指導の本質に迫ります。
情熱と理論、経験と挑戦が交差する、すべてのスポーツマンに届けたい15分です。

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指導の「なんとなく」を、理論で裏付ける。
育成と戦術の間に橋をかけ、コートで“結果を出す”ための具体的手法が詰まった一冊。
塚本鋼平氏が現場で実践してきた革新的な指導のすべてを、あなたのチームにも。

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塚本鋼平さんと株式会社ゼロワンバスケットボール

塚本鋼平さんは、秋田県能代市に本社を置く株式会社ゼロワンバスケットボールの代表取締役です。

事業の柱は、バスケットボールの普及と発展。B.LEAGUEの公式映像配信「バスケLIVE」で解説を務めるなど、競技を伝える側に立っています。この回では前編として、塚本さんがバスケットボールに出会ってから会社を立ち上げるまでの道のりを伺いました。

始まりは、小学生のときのオウンゴール

意外にも、塚本さんが最初にやっていたのは野球でした。小学4年から6年までは野球部。ただ小さな小学校だったため、6年生で野球が終わるとそのままバスケットボールへ移ることになります。

出身は、能代市の隣にある藤里町。能代工業高校の初代監督がこの町の出身だったことも、バスケットボールを始めた理由の一つだったといいます。

そして原体験が訪れます。ミニバスケットボールの試合、残り5秒で出場した塚本さんは、わけも分からないまま相手が打ったシュートを取り、近くのリングにそのままシュートを打ってしまいました。本来なら守らなければならない側のゴールです。オウンゴール。

心に大きな傷を負った――そう振り返る一方で、塚本さんはこう続けます。この体験があったから、一生をかけてバスケットボールをやっていこうと思った。絶対に挽回してやる、という気持ちが原点になりました。

「高さへの挑戦」──能代工業という壁

中学、高校とバスケットボールを続けるなかで、塚本さんが強く影響を受けたのが、能代工業高校の初代監督が掲げた「高さへの挑戦」という哲学でした。

バスケットボールは身長の高い選手が有利な競技です。そのなかで、能代という地方で生まれ育った子どもたちが、都会の背の高い選手たちを倒していく。それが「高さへの挑戦」の意味でした。

塚本さんはこれを、さらに広く捉えます。挑むべき「高さ」は身長だけではない。スピードも、体の大きさも、データ上の数値も、すべて高さだ――。そう考えて、いろいろな高さに挑戦しようと決めたといいます。

高校時代には、その能代工業高校と決勝で対戦しました。結果は完敗。漫画『スラムダンク』の山王工業のモデルになったチームです。「すごかったですよ」と塚本さんは振り返ります。

大学の体育館で見た「神」

大学は北海道へ進み、4年連続で全国大会に出場します。ただ、そこでも「高さへの挑戦」は続きました。北海道という地方リーグから1位で出ていっても、関東や関西には高校時代のスタープレイヤーが揃っている。また壁だ、と感じたそうです。

大学時代でいちばん記憶に残っているのは、試合ではありませんでした。NBAのスーパースター、マジック・ジョンソンが自分の大学の体育館に練習に来たときのことです。

驚いたのはウォーミングアップでした。センターラインで普通にドリブルをつき、そのままフッと投げる。それがリングにスパーンと入る。「なんだこれは」「もう曲芸の域だな」と思ったといいます。神に出会った瞬間だった、と塚本さんは表現しました。

指導者の道へ──9年間の高校教員時代

指導者を志したきっかけを尋ねると、塚本さんは「歩んできた道で出会った指導者が、本当に全員素晴らしい方たちばかりだった」と答えました。

高校時代の恩師から教わったのは、当たり前のことを当たり前にやるということ。妥協せず、しっかりと教えてくれた。それがいまの自分の芯を作っている、といいます。大学時代の恩師――日本代表のキャプテンを務めた人物からは、愚直に、着実に人生を歩むことを教わりました。

大学卒業と同時に、塚本さんは高校教員として秋田に戻り、バスケットボール部の顧問を務めます。もちろん、能代工業を倒したいという気持ちを抱えたままでした。顧問を務めたのは合わせて9年間。間に大学院へ進んだ2年間を挟み、その後また秋田で2年間教員を続けています。

ただ、能代工業の壁はやはり高すぎた、と塚本さんは言います。

「仙台の奇跡」を見て、プロの道へ

転機は、大学時代の恩師が女子日本代表のヘッドコーチを務めたことでした。

仙台の体育館で行われたアジアの大会の準決勝、日本対韓国。勝ったほうがアテネオリンピックに出場できるという一戦です。大方の予想は日本の劣勢でしたが、ダブルオーバータイムの末に日本が勝利しました。塚本さんが「仙台の奇跡」と呼ぶ試合です。

塚本さんは、それをベンチの真後ろで見ていました。「涙と震えがすごかった」。あの舞台でバスケットボールを指導してみたい――プロになりたいという情熱が、そこで湧いたといいます。

そして当時、日本で唯一のトッププロリーグだったNBL(ナショナルバスケットボールリーグ)の和歌山トライアンズでコーチのチャンスを得ます。教員という安定した立場を辞して和歌山へ。「本当に大きな決断でした」と振り返る移籍でした。

ところが、話はそこで終わりません。和歌山トライアンズは前年に準優勝している強豪で、名門チームを和歌山に移して華々しくスタートを切ったばかりでした。しかし――スタートから半年もしないうちに、会社が倒産してしまいます。

その先の話は、後編で語られます。

※本記事は、ラジオ番組の前編でお話しいただいた内容をShikisai編集部が記事としてまとめたものです。発言は趣旨を損なわない範囲で整理しています。

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Profile

塚本 鋼平

株式会社Zero One Basketball
代表取締役

塚本 鋼平

つかもと こうへい

Master of Business Administration(MBA:経営学修士)
スポーツ・フォー・トゥモロー・コンソーシアム(SFTC)準会員
日本スポーツマンシップ協会(JSA)公認 Sportsmanship Coach
一般社団法人 日本防災共育協会認定 SDGsビジネスエデュケーター
日本バスケットボール協会(JBA)公認S級コーチ
日本バスケットボール協会(JBA)公認コーチデベロッパー

石塚 直樹

株式会社ウェブリカ
代表取締役

石塚 直樹

いしづか なおき

新卒でメガバンクに入社し、国土交通省、投資銀行を経て独立。腕時計ブランド日本法人の立ち上げを行い、その後当社を創業。地域経済に当事者意識を持って関わりながら、様々な企業の利益改善や資金調達を、デジタルや金融の知見を持ってサポートしています。
■編集長インタビュー
「メディア「地域色彩」立ち上げの背景とは?株式会社ウェブリカ・石塚直樹が語る地域企業活性化のビジョン」
https://chiiki-shikisai.com/webrica-ishizukanaoki/

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