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なぜオーベルジュ飛騨の森は、ゴキゲンなのか。|料理人・中安俊之

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オーベルジュとは、料理を中心にした滞在の場所だ。
岐阜・高山市にある「オーベルジュ飛騨の森」。食事を起点に人が集い、滞在そのものを味わう宿である。
なぜだか、ここでは不思議と楽しそうな人に出会う。
その理由を、オーナーシェフ・中安俊之さんに聞いた。

「楽しさ」の定義について

——唐突ですが、シェフという立場で、今仕事をしていて楽しいと感じますか?

中安: めちゃくちゃ楽しいですね。

——楽しいと思い始めたのはいつですか?

中安: 一番最初、お店に入った時に、その一員になれた気がした時はやっぱりすごく、学校じゃないなとか、プロフェッショナルの世界だなとか。プロがいいというわけではないけど、ステージが1個学校から上がれた瞬間から、めちゃくちゃ楽しいなとは思っていたかもしれない。

——今回の企画の背景には、楽しそうな人が少なすぎるという問題があって。特に20代の周りを見ても、なんか楽しくなさそう。それ何でだろうなと思っていて。仮説としては楽しいの定義が人それぞれおかしいんじゃないかなと。そこでお伺いしたいのが、中安さんが思う「楽しい」って何ですか?

中安: 最近年をとって思うことは、アドレナリンにいかに左右されないかは結構重要だと思っていて。多分若いときって高揚感とか興奮とかアドレナリンが出る。それは多分YouTubeだったりソーシャルメディアだったりショート動画だったりみたいなものを見た時に、激しいものだったり速い感覚で物事を捉えてアドレナリンが出る感覚、ということがすごく楽しい。
逆に言うと、僕はわかりやすいっていうことよりも、普通に思っていることができるようになったり、やりたいことをすぐやるとか、思っていることの実現性とか再現性が高いことが楽しみであり、楽しみがゆえにそれを求めて旅行をしていたりとか、遊んでいたりという状態が好きかもしれない。

窓の向こうに広がる、雪の森。

当たり前が、ある日突然なくなる

——特に若者はSNS等で情報をキャッチアップして、理想の状態を描いて、そこに向かって日々頑張っていると思うんです。努力はしていると思うんですよ。それ自体が間違っているということでしょうか

中安: いや、全く間違いだと思わないし、段階だと思う。ちょっと話が脱線しますけど、私50歳になったんですけど去年、親友が死んだんですよ。友人の絵描きで、高校の時からの友達で、年齢的には1個下だったんだけれど。その子がある日飲んで帰ってきて寝て、朝起きた時にトイレで倒れて脳梗塞で、死んでしまいました。

その時に友人から電話があって、高校以来久しぶりの人から連絡があったなと思ったら、ある日突然そいつが死んだという連絡が来て。その時に、1ヶ月前にも会ってたしすごく楽しいことというか、二人で会うこともすごい多い親友だったりというのがいなくなった時に、すごい寂しさだったりとか信じられない感覚だったりというのがすごくあった。

その時にやっぱり、今を楽しく生きていたりとか穏やかとか家族が一緒にいるとかということが、なんかめちゃくちゃ奇跡だったりとか、当たり前のことを感じるというのがすごく実は難しいと思っていて、そこがすごく大事だったりするんだけど。

その目の前だったり手の届く範囲だったり、接客でいうと目の前のお客さんだったりっていうことを置いてけぼりにして、理想だったり売上だったり企業成長だったりというのは、僕はすごく違和感だったり違うなと思っていて。単純に目の前の人と楽しくいたりというのが、いつ終わるか分からないからそれを存分に味わうとか楽しむというのは結構心がけているかもしれなくて。

その目の前のことを楽しんでいないのに、理想ばかり楽しそうだから追い求めているように今はすごく見えていることが、何か僕とは違うかなと思っている。

みんな、楽しんでいる“ふり”をしている

——自分について思考してないんですかね。外部の情報で自分がやりたいことを定義づけして。

中安: 全く間違ってはいないけど、僕が違和感あるのは、定義づけが先というよりも素直じゃない感じがする。例えば自分に素直であれば、気持ちいいなとか心地いいなとか、この人嫌いだなとか面白いなみたいなことって、もっとみんな分かっているはずなのに。

何かを経験したときに、自分がわからなかったり楽しめてなかったとしても、今はこれが面白いんだよとか素敵だよっていうものを、面白くないと言うと疎外感があったりとか、みんなの輪に入れてもらえないと思って恐怖心なのか分からないけど、単純に楽しめていないみたいなことはよくあるんじゃないかな。

それは仕事においても一緒で、その時に仕事を選んだりもそうだし、仕事をやっている状態の時に何か疑問を感じていたり何か不満を感じていることに対して、今は何か答えがすごく安直というか、転職すれば済むとか、自分の好きなことを見つければいいみたいな答え合わせが、またすごく違う気がしていてる。

楽しむことは不幸の始まり

中安: 楽しむってある意味不幸の始まりだとも思っていて。すごく深掘りして、知れば知るほど、普通のレベルだったり深掘りしていないところにいる時にどんどん満足できなくなるっていう反作用もあると思っている。

だから私たちがやっているような宿で、例えば今まで飲んだことがないワインみたいなものに触れてしまった時に、普通のワインが次回別のお店に行って出てきて、いつも通りのワインが提供されても、もう実は楽しめない可能性があったりするのと一緒で。

だから今の状態が、難しく考えたりということの前にそもそも、ちょっと嫌だろうとちょっと二人の仲が良くなかろうと、ちょっと笑顔を向けてみるとか。逆に言うと興味を持って物事を捉えることができないと、楽しいということがあんまりわからないのかもしれないと思っていて。

興味をどうやって自分が持たせるか、持つことができるかというのは、多分いろんな経験だったり目線だったり感覚だったりを磨いていかないと。そもそも知らないことを最初から楽しむのは実は難しいと思っていて。でも知れば知るほど面白かったりするということを、若いうちに、すぐコロコロ切り替えて「僕には向いていない」「僕はこれが分かんない」みたいなスパンが短いのは結構問題だと思っている。

それはなぜかというと、自分たちが歳をとって長くやっているのにも関わらず、サービスマンだったり人と話すということをやっているのに未だに人のことがよくわからないし、未だにワインも知らないものが出てくるし、不確定要素というものがあって。逆に言うと、全部わかってしまうことが面白くないんじゃないかなと僕は思っている。

人は「やらない言い訳」を考える天才

——20代だと、転職や独立を考える人もいれば、それをリスクと捉えて組織に残る人もいますよね。

中安: 何か今話を聞きながらすごく思ったことがあって。よく僕らが若い子と話してもそうだし、教える時にあったりすることがあって。だいたいは「やらない言い訳」をすごくみんな考えているように見える。だったらやればいいじゃんとか、とりあえずやってみたら?みたいな風にすごく思ったりする。

あとは、言い訳が悪いとか潜在的に思わされている節があるよって思っていて。だからみんなやらない言い訳をすると怒られたりとか、都合が悪いとかみたいな風に思いがちなんだけどそうじゃなくて、「やる言い訳」を考えるのがいいんじゃないかと今思った。やるためにどうしたらいいかみたいな。

それが何か言い訳がましく言っているみたいなことではなくて、それをやる、やれるようにするための努力みたいなものをやってから、それが例えば転職だったら、辞めるための言い訳ではなくて転職するため。逆にいうとみんなに応援してもらえるようにする言い訳みたいなものは、別に肯定的に捉えたりポジティブに捉えてもいいんじゃないかなと思いました。

だからそれは絶対量の話ではなくて、やりたいんだったらどうにか説得してみせろよみたいな。わかりやすいかどうかわからないけど、例えで言うと「〇〇さんを私にください」みたいなプロポーズを彼女のお父さんに言います。その時にお父さんに「お前なんて帰れ。ダメだ。」と言われても、本当に結婚したいんだったらお父さんに対してどうにかさせてもらえるように考えたり行動したり証明したりということが、実は人生においてはいっぱいあって。家族に反対されたり友達に反対されたり。

それに臨んでみるとかやってみて実績を残すみたいなことの達成感とか満足度というのは結構いっぱいあると思っていて。だから僕は天の邪鬼だったり反骨精神だったりの中で「ほら見ろ」みたいな、証明して見せたぞみたいなふうなことを結構生きがいに生きてきたので。

何か言われたとおり正解のところを歩んでいて危なくない道をとか、逆に言うと危ない道を行けっていう話でも決してないんだけれども。自分が思うやりたいことか楽しいこととかというものを、行ってみたりやってみてもそんなに社会的に問題じゃなかったり。周りの人からそれを言うと急に疎外感があって嫌われるみたいなことは、実はないんじゃないかなと思っていることを、恐れずやってみたら?ってすごく考えてるかもしれない。

「やりたいこと」は、探すほど遠ざかる

——やりたいことは潜在的にあるという解釈であっていますか?

中安: あっていると思う。何か子育てをしています、子供とどこかに食べに行きましょう、旅行に行きましょうと言った時に、大体「あと何分?」って聞かれるんですけど。あと何分って言われる時って待ちの状態なので。待ちの状態の時って長いのよ、めちゃくちゃ。

何か遊んでいたりする状況だったりすると、時間って一瞬に過ぎちゃうから。時間って等しくみんな流れているはずなのに体感がすごく違う。いい状態で楽しんでいると速いみたいなことを、いろんな場面で置き換えたりすると。

例えば「彼女欲しい」「やりたいことを見つけたい」みたいな状態って、追っかけている状態だったりすると、なかなかそれはやってこない気がする。求めちゃったりすればするだけすごく、なかなか見つからないなぁとか。彼女ってどうやってできるんだろう?みたいな、いい仕事ってどうやって見つけるんだろう?とか、自分のやりたいことを探すぞ!とか言ってると、多分その答えには遠い状態にいて。

時間はすごく長く感じるけれど、彼女ができるときってある日突然やってきたりとか、やりたいこともある日突然やってきたりとか、仕事もある日突然見つかったりすることを。待ち状態ではなくて普通の状態からその出会いみたいなのを大切にすることが結構重要な気がしている。

だから「何かになりたいんですよね」というと、時間かかりそうだなとか思ったりする。だからこそインプットとアウトプット的な言い方をすると、刺激がない人にはアウトプットがしづらいみたいな定義がもしあった場合には、何でもいいし興味もなくてもいいから、とりあえず行ってみたりやってみたり人と話していく中で、刺激が大きいものを受ければ受けるほどそのアウトプットが変わってくると思っているから。

ただ待っている状態みたいなことよりは、もうなにも考えなくていいし、何にも正解だとか楽しそうとか分かんなくていいから、とりあえずいっぱいやったらってすごく思う。そのいっぱいやることが見つかってなかろうと、僕はその状態がいっぱいできたりいろんなところに動けたりするだけで、実は結構豊かだったり。金銭面的に苦しかったり精神的に苦しかったりすると、そもそもそういうふうに思えなかったり動けなかったりということの方が辛いかも。

やりたいことを、急いで成果に結びつけなくていい

——自分がやりたいことを突き詰めてやろうと思ったとき、それが社会やお客さんに受け入れられるかが1つの壁になると思います。
自分のエゴを大事にした結果、うまくいかないのでは?と思う方もいると思うんです。中安さんはどうやってそれを捉えていますか?

中安: まず最初の問いの中で、自分がやっているものを待てないことは、結構問題が大きいと思っていて。やりたいことを経済的にだったりお客さんの満足度に最初から直結しようとしすぎな気はしている。

それはなぜかというと、日本に住んでいる限り実は結構困窮していないんじゃないかみたいな。親のすねをかじったりすることによって生き延びることができるとするのであれば、いつまででもそこを自分が満足したり納得するまでやり続けて、「まだそんな歳になってもやっているの」みたいな研究みたいなものが、実はすごい歳をとってから花を開くというのも全然悪くはないと思っている。

本当に食べるものがなくてみたいなときだったら、生きるために働かなきゃいけないみたいなフェーズはあると思うんだけど。日本ってそうじゃなかったりして。そもそも引きこもりみたいな、何もしないのにご飯は出てきてみたいな人たちは、めちゃくちゃ引きこもってめちゃくちゃ考えて、40~50代になってから花が開いても、そんなに悪いことじゃないんじゃないかなと思っている。というのが前提としてあります。

2つ目の話で、満足度みたいなものをどうやってコネクトするかというものは、あんまり考えたことはないけど、言われて思うのは「しつこいぐらい人を見ていればわかるかな」という感じ。

「いかがでした?」は、だいたい嘘を生み出す

中安: それは自分が満足しているってことはもちろん大前提で仕事に臨むこと。それは経験値を積んだり自信があった上で誇りを持ってやるということはすごい大事だとは思うんだけど。何かお客さんが満足しているかっていう勘違いが結構世の中には蔓延しているように見えてる。

それはどういうことかというと「私たちは良かれと思ってこんなことをやっています。こんなことをやっているとすごいでしょ」というものを受けて、僕は楽しかった覚えがあんまりないから。

よく言うんだけど、ご飯を提供したりワインを提供したときに、「いかがでした?」って言って聞かれることってよくあると思うのだけど。何パーセントの人が「好きじゃなかった」「まずかった」と言えるんだろうなというのを思う。言えなくない?

——言えないですね…

中安: だって、良かれと思って向こうは言っているはずなんだけど。相手も良かれと思って相手を傷つけたくないから「美味しかったです」って言いながら二度と行かないみたいなシチュエーションがすごくあると思っていて。

だから試行的にやることではなくて、お客さんをすごい見ていたら食べた瞬間に笑顔になったとか、「うわぁ」とか声が出ちゃうみたいなものをすごく観察して、自分のトライアンドエラーをやっているというぐらいしか思ってないかもしれない。

だからそもそも相手が存在していない状況で、机の上で考えた満足みたいなもので全てをやるのではなくて。その「答えを言ってください」「食べてみたときの感想を教えてください」みたいなものが嘘だと思っている。感想を言っている時点でもうめちゃくちゃバイアスだったり「傷つけない」だったりということがすごく入っているから

目指すのは「横綱相撲」

——マーケット調査・顧客調査をして商品を作って届ける、というのが一般的な手法だと思います。その考え方は合っているのか?と一回問うべきということですよね。

中安: 入り口としては多分必要だとは思う。けれども長くやっている中で僕は疑問を感じるようになった。なぜなら、ターゲットを決めたりマーケットというものを決めたりするときに、実はすごく移り変わりが激しいと思っていて。ターゲットでやっているものを10年間やったときにすごくズレを感じているというのが。

すごく年をとったり経験を積んだり長くやっているときに立ちはだかるものだと思っていて。そのターゲットでやっているとその事業だったり自分の人生だったりというものが、常に外の影響で変えられちゃう気がした。10年後には新しいことを考えなきゃいけないとか、20年後には違う人たちを狙ってなきゃいけないみたいな。10年前にやっていた経験値みたいなものが次の10年であんまり活きてこないみたいな人たちは、何か常に人生が路頭に迷っているように見えたりするから。

あまりターゲットとかマーケットで考えるのではなくて、僕らが思う感覚でいうと「横綱相撲をやりたいな」ってすごく思っていて。横綱相撲は何かというと、ターゲットが存在しないビジネス。

僕らでいうと、固有名詞出てしまうけど「赤福」みたいなものを考えたときに。地元の人は食べません、若い人は食べません、おじいさんは食べません、おしゃれな人を狙っていますって、なくない?みんな知っていて地元の人も食べます、若い子も食べます、おじいちゃんも食べます、女の人も食べます、おしゃれな人も食べます、意識高い人も食べます。ターゲットが存在していない。何を狙っているのかわかんない。

ということが例えば料理であったりといったときに、カルボナーラは若い人に人気です、なぜならちょっと重たいからみたいなことはあるとしても。例えばうどんは若い人には人気がなくてみたいなことはナンセンスな会話だと思っているし。ターゲット論争みたいなものには引っかからないと思っているものが、僕はすごく文化度が高くて、等しくいろんな多くの人たちが満足するんじゃないかなって思っているような世界観に自分もいたいなと思っている。

だからあまりターゲットを意識しないようにしていて。その人が来ないと面白くないとか、こういう人に来てもらいたいのだよねとかというのはあんまり思っていない。むしろ、自分たちが心地よくとか機嫌が良くいたいがゆえに、素敵なお客さん、心地よいお客さん。

ただいい状態でみんなが文化度もあって楽しくご飯を食べたり旅行をしたり人生を楽しんでいたりという状態をいかに設計できるかのほうに重きを置いている考えで。そこを考えないで自分たちを蔑ろにして、お客さんも蔑ろにして、ターゲットがこうでとか今流行っているものがこうですみたいなものに、あまりにもみんなが左右されてるんじゃないかなというふうに思います。

——仮にそれが人間皆できる状態になったとしたら、カオスな世界になりそうですね。

中安: 最高です。

——そこにデメリットとかリスクってないんですか?

中安: デメリットとか。よかった悪いとか正義みたいなものがそもそも現代で決めることじゃなくていい気がして。それは後世の歴史家とかが決めれば良くて。ただ楽しんでいるときに間違った方向に行って誰かを責めるみたいな状態じゃなければ、別にそんなにそもそも考えなくていいんじゃないかなと。

カオスな状態を設計したりする方が気持ち悪いし。必然的にカオスになってしまっているものを受け入れたりする環境の人って、旅行に行ったりしたときも「このまち死んでるな」とか「このまち活気があるな」って誰にも教わったわけではないけど、入った瞬間に感じるものっていうことがすごく大事だと思っているから。

それを綺麗に整備すると「わぁ素敵!」みたいなものは僕は気持ち悪く感じるし。なんかよくわかんないけど「謎のものがいっぱいあるね」みたいな商店街とかは僕はワクワクしたりするから。道路の整備とかまちの区画みたいなものは多分計画的で、戦国時代とかに城下町をつくったみたいなことがすごく大事だったりするんだけど。中にあるものに関していわゆるコンテンツみたいなものは、いろんな人が100人いたら100通りの考えがあるまちだったり考え方のほうが面白い。

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一番つまらないのは、「冷めた現場」

——別の質問ですが、中安さんは旅行好きだと聞いています。宿とかレストランに行って、楽しいと思いますか?

中安: 楽しいです。めちゃくちゃ楽しいです。

——逆に「楽しくない」という場に出会った場合、その特徴は何ですか?

中安: 冷めている。働いている人が冷めているというか、自分たちに対して興味がなかったりとか、自分たちがやっていることに興味がなさそうに見えるところに行くと、すごい寂しい気持ちになる。

僕たちに興味がなくてもお店がすごい活気があって回してどんどん楽しませているという軸があれば、それはそれで十二分に楽しいと。だから私に対してアテンドしてくれておもてなしというものだけがサービスだとも思っていないし。

興味の対象じゃなくて、自分たちはしこたま料理を作っていろんな人に出したいんです。といった活気みたいなものって、言語化するのはできるかもしれないけど入った瞬間に感じるものは何か「ここすごいね」みたいな。それは料理も同じでああだこうだ説明されるよりも、食べた瞬間に美味いと思えるかみたいなパワー感がすごく大事です。

そのパワー感を裏ではすごく考えているんだろうなとか考えられたんだろうなみたいなものにはやっぱり圧倒されたり感動したり、楽しいなと思うけど。「これは考えて無くない?」「何か思いつきでコピーで今流行っているからこれやったでしょう」みたいなものは、なんか来なきゃよかったなと思っているかもしれない。

——その考えとか設計っていうのは、オペレーションのマニュアル化とは違うということですか?

中安: 全く違う。むしろマニュアル化されていないものに触れたいと思って生きている。

「本人がいない店」は、信用しない

中安: 僕たちがお店を選ぶ前提として、常にそこに行くってわけでは決してないんだけれども、いいお店に行こうといったときの定義はちゃんとあって。例えばいい宿ができました、いいレストランができました、とても有名な何々シェフの監修ですみたいな、誰々さんがデザインしましたというものは選ばない。「いないじゃんその人」って思ってる。

その人の料理食べたいんだったらその人が作っているところに行きたかったりとか。「誰々さんがプロデュースしました」というものがなぜいいのか、なぜ流行っているのか、なぜみんなやるのか、僕には全く理解ができなくて。

僕たちが料理人をやっていて、シェフの隣で小僧の時に働いているときに。全く同じ材料を全く同じ分量でやっているのにもかかわらず、同じものはできなかった。ってことは、すごいシェフが監修してこの通りにやれば絶対感動できますよってことはないと。

それは何かというとパワー感だったり、ニュアンスだったり、やっぱり経験値だったりとか。ごくわずかに感じるかもしれないけれども実は多大な影響をしているから。そのシェフだったりサービスマンだったりっていう人の力みたいなものを僕は信じているタイプだから。そこにシステムとかマニュアルとかメニューとかレシピがあるとみんなが同じものができるとかあんまり思っていない。

人は、管理しても育たない

——オーベルジュ飛騨の森にはスタッフさんがいらっしゃいますよね。人材をマネジメントするために具体的にどうしていますか?

中安: スタッフにおいては、これまでたぶん1000人とか面接をする機会があって。もう本当にたくさんの人に会って、教育したりというのはさんざん考えてきて、こういう風にやったら上手くマネジメントができるとか、こういう風にやると変わるんじゃないかなということが、全てうまくいかなかったなという感覚がある。

だから人は結局変えられないし、僕が変えるものではないから。僕がこういうふうに設計しようみたいなことはあんまり考えなくなって。いかに口を挟まないかみたいなことが今は重要だと思ってる。だからマネジメントしない。

それはすごく前提として悪いように聞こえるんだけど、今はすごく小さな組織というものをやっているときに、若い子たちが失敗したときに恐れたり、悲しんだり、お客さんにうまくできないから問題が起きた、もしくはお客さんを怒らせてしまったらどうしようみたいなふうに思ったりするのであれば。僕がいつも言うのは「君たちの失敗ぐらいいくらでも挽回できます」と思っている。そのくらいのイレギュラーみたいなものは織り込み済みで。

逆に言うと入ってきたばかりの人が、そりゃあ30年選手と同じことはできないし、同じレベルでものを見ていないし。逆にいうとその人が失敗をするようなことは任せないし。でも任せられる範囲の中で失敗しても挽回ができたり、自分たちがコントロールできるということをちゃんと線引きしているぐらいですね。

あとは若い人にしかできないこととか、言葉づかいとか経験値であったりという中で最大限に自分で考えて発揮する努力をしていれば、そんなにマネジメントは実はいらないんじゃないかなと思う。なぜなら、それはマネジメントがどうこうというよりは、働くための前提として人の前に立てるとか人に料理を出せるとかという訓練をいかに自分がしているかしていないかの方が重要だと思っているから。

マネジメントでうまく合理的に働かせようとかっていうよりは、すごく表に立たないとか人に見えないときに、いかに勉強するかいかに練習して訓練しておくかが人より勝っている。2倍3倍も10倍もやるみたいな感覚の方がすごく教えなきゃいけないというか、やるべきだと思っているから。それだけやっていればそもそも自信あるでしょみたいな設計・マネジメントを僕はしているかもしれないなと。

責任の取れない自由は、存在しない

中安: その経験を積むための努力をしていない、本気でしていない人が自由を求めても無理。だって、自由選択権がそもそもその人たちにはないから。経験値だったり選択肢がないから。

やっぱり選択肢を得るためには経験を積んだりとか、責任が取れない自由というのはそもそも存在しないと思っているから。自由になりたいのであれば人よりもすごく沢山のものをやったり見たりしていれば、自由というものは初めて考えられる。

例えば、すごいチープな嫌な話でいうと、偏差値が低い人は学校をあんまり選べない。でも偏差値が高かったりするといいところも選べるし、逆に偏差値が低いところも選べる。金銭的な問題でいうとお金を持っていたほうがたぶん選べる確率は高くなる。あんまりお金がなかったりすると自由にはなれない、選択することができない。例えば高級店には行けない。だからみんなが自由になるために「お金持ちになりたい」みたいなふうな安直な考えになる気がしていて。

そもそも自由というものの定義をしなければ、お金持ちになりたいということも実は行き着かない可能性もあって。それはなぜかというと、自分がやりたいことを今の状態としてやれているのであればそれをいかに楽しめるか。むしろそれを掘るためのアイテムとしてお金が必要なのであればその分だけ稼げばいいし。それ以上の無駄な預金とか貯金みたいなものとか、お金持ちになりたいみたいなことを自由と履き違えると。

そもそも自分がやりたいと思っていること、自分が楽しみたいこととは乖離があったりしたときに、結構「何のために働いているんだろう」「なんでお金持ちになりたいんだろう」みたいなこととか、歳をとったときに「なんでこの仕事をしているんだろう」「僕の人生は何だったんだろう」みたいな人たちを結構見かけることが多いから、そこには僕たちはあまりそう思わない。

なぜなら「誇り」みたいなものがあって、そのためにすごく勉強をしていたり、楽しんで物事をいろいろ取り組んで経験をしていて。そこに自信みたいなものが出てくれば、誇りみたいなものが生まれて、自分がやっていることと自分の気持ちみたいなものが一致していけばそもそも状態として楽しいんじゃないかなとは見てるかな。そこはすごい重要で、頭で楽しいと感じるよりは肌感で楽しいと感じるかの設計をしたほうがいいと思っている。

いい飯、美味い酒、そして雪のテラスで深呼吸。

「簡単そう」に見える人は、やり尽くしている

——実際、中安さんの周りにこの人楽しそうだなという人は周りにいますか?

中安: いっぱいいます。 僕が今付き合っている友達はみんな楽しそう。仕事を楽しんでいる人、もしくは仕事が上手な人たち。その友達がやっている風景が楽しそうに見えるから付き合っている。

常に友達に対する憧れみたいなものがあって、「ああ将来はこんな人になりたいな」とか「生まれ変わったらこんな人みたいになりたいな」って思う人がほとんど。友達の大前提かもしれない。

それはなぜかというと、自分がやっている領域を侵さないようにしていて。その人が素敵なことをやっているのが見えるように、自分も自分の領域でそういうふうに楽しんでいるように、外から見てもらえるとか自分が楽しめているかみたいなことを状態として気にしている。

それは何か人の目を気にして仕事をしているとかそういう話ではなく、機嫌が良く仕事に取り組めているかいないか。根つめて苦しくて眉間にしわを寄せながらやるのではなく、すごい楽しんで。

「簡単そうに見える状態」がすごくいいと思っている。すごいうまい人って、例えば陶芸家が土でろくろを回しますって、簡単そうに見えるじゃない。何かすごい適当そうにやっているんだけどその人は指の感覚とかその時の気温とかいろいろなものを肌で感じて、それがさっとできるから一見適当に見える。ささっとできるみたいな状態までやり尽くすとか、練習しまくった先にしか見えない景色を、見えるようになりたいなって思って今も生きていて、その取り組んでいる状態が何よりも楽しい。

自分の楽しさを突き詰めると、それを楽しいと思ってくれる人はずっとついてくるでしょう。その「おもしろいな」「こんな人になりたいな」というものがないものは、いかにマーケットだとかターゲットだとかいってもトレンドで終わっちゃう気がして。

玄人じゃなくても、何か全然違うのはわかるみたいなことも大いに結構だと思うし。すごい玄人でも「えっこんなの食べたことないな」みたいな世界も面白いと思っていて。その感覚値でいうと玄人も素人も同列ぐらいに思えるようなことをやりたいと思っている。

目指すのは「機嫌がいいテキトウなおじさん」

——中安さんは今後どういった状態を目指していますか?

中安: 機嫌がいいテキトウなおじさん。

ゴキゲンな人って楽しそうなんだよね。そもそも大体変人。テンションとかでゴキゲンというのと全く違う。ゴキゲンになりたい、「わぁすごく活気があるからゴキゲンだね」というものだけじゃないものにゴキゲンって潜んでいると思っているから。ゴキゲンだったりお店としてゴキゲンだったりするから。機嫌が良かったり楽しんでいたりということが自分の状態でありたいから。

それは自分がもしかしたら将来仕事が変わっているかもしれないし。料理人に飽きて、もしかしたら農業をやっているかもしれないし、みたいな状態でもなんでもいいと思っているけれども。なぜかやっぱり料理の世界からは離れられないし、それが好きだから食べに行ったりすることもそうだし。カウンター的に楽しめない高級店に行っても「なんかよくわかんないな」「これだけのコスパあんのかな」みたいなことが多いから。自分たちはゴキゲンなお店ができたらいいなとは思ってます。

自分たちがゴキゲンじゃないのにお客さんがゴキゲンとは思ってはくれない。若い子が来ても「この人たちかっこいいな」とか「面白いな」とか思ってもらえたり、玄人でも「この人たち面白いな」って思ってもらえるような、自分たちのゴキゲンの状態がすごく大事。

寛容さが楽しさを伝播させる

——みんなが楽しんでいる世界を見たいなって思いますね。

中安: 今日、雪がたくさん降っている中、お客さんの送り迎えをしました。道路は凍って雪いっぱい真っ白ですと言ったときに。運転していて、横から車がすごいスピードで出てきて止まるみたいな。イラっとするんですよね。そんな危ない感じで出てくるの?みたいな。急いでたりとか何かこう周りを見てなかったりとか。

でも、楽しんでいる人たちって余裕を感じるんですよね、ゆとりというか。ゆとり教育とかゆとり世代という話ではなくて、寛容、人に寛容だったり「あーいいよ〜」みたいな。だからそれがなくてカリカリしている人たちっていうのは、世の中は殺伐としていたり苦しかったりするように僕は思っているから。

それよりも何か「あっどうぞ」みたいな優しさで世界が成り立つ方が、僕はすごく好きだなって思っていて。なんかその優しさが楽しさを伝播していくような気が僕はしているかな。余裕がないとそもそもゴキゲンじゃないからね。

だから何か、日本はすごく素敵な国で、生まれ育っている誇りある国だから。僕は外国から戻ってきたんだけど、すごく楽しそうじゃなかったりとか殺伐としていたりするというのは、すごく上手くいっている人とか走り続けないと成功しないみたいなものが蔓延しているように僕はすごく感じているから。全然走ってないんだけど、めちゃくちゃゆとりがありますっていう状態になりたいっていうものをずっと目指している。

生まれ変わっても自分です、と言えるか

——「これいいでしょ!」とか「俺に任せろ!」とか自信を持って言い切れる若者が少ない印象はあります。

中安: それが逆に言うと大人も一緒な気がします。「自分がやっていることに胸を張っておれたちのやっていること面白いぜ」って言える大人がどれだけいるんだろう、東京にって思っている。そこを問いたいです。自分に嘘をつかず言える人。「生まれ変わっても自分です」って言えるぐらいの人。

「もう一回やりたいな、今の人生って」思ってる。そういうときに安直な質問で「何か苦労はなかったんですか?」あるに決まっているじゃん。辛いことを踏まえて自分の人生でそれをうまくいい状態に持っていけるようにやること、その状態が全て苦しいみたいな風じゃなければよりいいなと思っているし。

若い子達は本当に打ち込んでその大変なものを楽しめている人が、実は昔より今のほうが多いんじゃないかなと思っていて。じゃなければ大谷選手とかみたいな若いのに急にレコードを塗り替えるみたいな人たちは生まれないと思っているから。大谷選手みたいのを見てても、やっぱり楽しそうだよね。

だから楽しんで物事に取り組むというのは、実は昔よりも今のほうができるはずなのに、すごく数が少ないように見える。だけどその中に一握りとんでもなく楽しめる才能のある人たちが今は昔よりも多い気がして。だからあんまり時代のせい他人のせいとか他責にはしなくて良くて、やる言い訳をしたほうがいいんじゃないかなと思ってます。

つべこべ言わずにやれ

——最後に、とはいえ悩んでいる若者が目の前にいた際に、なんて声をかけますか?

中安: つべこべ言わずにやれ。ただただやれよって。やりまくった先に見えるものがめちゃくちゃ楽しいから。
ああだこうだ「自分がやりたいのはこれだ」みたいな、うるさい。それは情報が多すぎるがゆえに、情報なんかシャットダウンしてでもやれる。やりまくったら多分どんなことでもできるようになるし、どんなことも面白いし、自分が今持っている物差しが全てじゃないから。自分の物差しを持つまではやりまくるということがすごく重要で。

そこに若い子たちの今こうなんです。ああなんです。悩んでいます。みたいなものに僕は耳を傾けるつもりはない。やりまくればいいんじゃない?って思っているだけ。苦労するに決まっている。大変なこともあるよ。つべこべ言わずやれって感じ。

——やり抜いた人だけが見られるものは?

中安: めちゃくちゃ楽しい世界が待っていて、他の人が気付けないものを見れるようになったりとか、思いもしない人に出会えたりとか。いろんなラッキーが自分のもとに来たときに、気づけるようになっていると思う。

今はみんなラッキーとかが来ていても気付けない状態の子は、多分自分を不幸に感じていたりとかネガティブに感じると思うけど。それは感覚とか感性みたいなものが低いからだと思っていて。やりまくった先に見えるものとか感じるものみたいなものをすごく大事にするためには。努力とか置いておいてやりまくれば、絶対誰でも気づけるようになるし、必ずみんなラッキーが一回以上起きるから。自分を信じて自愛をもって臨んでもらえると、道は必ず開けるんじゃないかなと思っています。

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Profile

中安 俊之

オーベルジュ 飛騨の森

中安 俊之

なかやす としゆき

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岐阜・高山市「オーベルジュ飛騨の森」オーナーシェフ。
イタリアとオーストラリアでシェフとして長い時間を過ごしたのち帰国し、妻の実家が営むペンション「飛騨の森」のある高山市へ移り住む。
2016年、宿をイタリア料理を軸としたオーベルジュとしてリニューアル。

公式サイトはこちら

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