「周囲に流されず、自分の頭で考え、判断し、表現できる人間を育てたい」。
長野市松代町で「思考道場 楠塾」を主宰する小林良行さんは、公文式本部で12年間教材開発に携わり、自然養鶏の起業を経て、独自の教育スタイルを築いてきた。
一見異なる二つのキャリアは、いずれも“自分で考え抜く”という小林さんの一貫した姿勢を映し出す。楠塾では「教えすぎない」という理念を核に、パズル道場による空間認識トレーニングと言語技術の体系的指導を通じて、子どもたちの論理的思考と表現力を育成している。
タブレット学習の急速な広がりや効率化志向が進む現代にあって、小林さんの教育観は「考えることの価値」を再定義し、塾という枠を超えて教育の根源に問いを投げかけている。本稿では、その理念と実践を体系的に紐解く。
今回は石塚がナビゲーターとなり、小林さんのキャリア、教育理念、楠塾での実践、そして現代教育への提言について詳細に伺いました。
目次
公文式12年で築いた教材観と、教育への違和感
石塚:
まずは、公文式本部でのご経験について伺えますか。どのような業務に携わっていらっしゃったのでしょうか。
小林さん:
大学卒業後、公文式本部に12年間勤務しました。当初は教室普及を担当し、東京と新潟の教室をまわって運営支援をしていました。後半は教材開発に携わり、特に印象に残っているのがブラジル向けの国語教材です。ポルトガル語ができるわけではないので、私が英語で教材をつくり、現地スタッフが翻訳して教材化していきました。
教材は、「順番にやれば必ず到達できる」という体系性があり、それが公文の強みです。教材づくりはとても面白かったです。
しかし一方で、「制限時間の中で素早く解く」という構造の中では、じっくり考える力が育ちにくい点に疑問も感じていました。子どもの強みや弱みを丁寧に見るほど、「考える時間」の重要性を強く意識するようになりました。
種鶏会社という異分野への挑戦:思考と創意工夫の連続
石塚:
公文を離れ、種鶏会社という全く新しいフィールドへ進まれた理由を教えてください。
小林さん:
人が多い環境が得意ではなく、自然の中で働きたいと思ったのです。ただ、農業経験は皆無だったので、働きながら学べる場所を探し、種鶏会社に就職しました。
その後、長野市で土地を探し、放し飼いの自然養鶏を始めました。卵の味は評価され、テレビや新聞にも何度も取材されました。個人宅にチラシを配って契約し、配達も自分で行いました。
ただ、自然相手の仕事は想像以上の厳しさがあります。
獣害で鶏が襲われ、蛇が雛を飲み込むこともありました。雪でビニールハウスが潰れてしまったときは、本当に心が折れそうになりました。それでも十数年続けたのは、自然の中で工夫しながら働くことに学びがあったからです。
石塚:
異分野の経験が、後の教育に活きている部分はありますか。
小林さん:
はい、あります。自然養鶏では「自分で考えて判断する」ことが常に求められます。それは教育にもそのままつながっていますね。
楠塾の創設と「教えすぎない教育」が生まれた背景
石塚:
教育の現場に戻られた経緯はどのようなものだったのでしょうか。
小林さん:
長野市にある個別指導塾が後継者を募集しており、私の教育観と一致したことで引き継ぐことになりました。その後、松代町への引っ越しを機に、自宅近くに塾を開設し、現在の「思考道場 楠塾」として一本化しました。
石塚:
教えすぎない教育とは、どういう考えなのでしょうか。
小林さん:
家庭教師時代、親御さんが近くにいると「ちゃんと教えている姿を見せなければならない」というプレッシャーを感じることが多かったんです。でも、教えればその場では“できるように見える”だけで、実際には理解していないことが多い。
つまり、自分で考えないと身につかない。
これはスポーツでも同じで、野球の権藤さんも「コツを教えるとすぐできるが、忘れてしまう」と述べています。自分で気づかないと本質的な力にはならない。
だから、私は「教えすぎない」という方針を徹底しています。
パズル道場:空間認識と思考力を鍛える“非効率な訓練”の価値
石塚:
楠塾ではパズル道場を必修にしていると伺いました。どのような意図があるのでしょうか。
小林さん:
パズル道場の教材は、空間認識力・論理的思考・粘り強さを育てるために非常に優れています。特徴は「一切書かない」ことです。すべてを頭の中で処理するため、思考の負荷が大きく、子どもは自然と脳をフルに使うようになります。
例えば、
・64個の立方体にいろいろな方向から串を刺したら穴はいくつ空くか
・サイコロを転がしたときにどの面が上になるか
など、視覚化しないと解けない問題を扱います。
これを続けていると、子どもたちは“形を頭の中で回転させる”ことができるようになります。私は全く思いつかなくても、長く続けている子は数十秒で答えます。
重要なのはヒントを与えないこと。
粘り強く考え続け、突破したときに思考回路が太くなる。それが算数や他教科にも大きく影響します。
言語技術教育:論理的に読み・書き・まとめる能力を体系的に育てる
石塚:
言語技術についても非常に力を入れておられますね。
小林さん:
はい。日本の教育では「読書感想文」など、感情表現から入る指導が多いですが、感想を書くのは大人でも難しい。まずは「事実を説明する力」を育てなければなりません。
そのため、助詞、主語・述語、文の構造、二文一文の書き換えなど、文章を論理的に組み立てる訓練を体系化し、長野の教材会社から出版しました。全国の私立学校や塾でも使用されています。
たとえば、
「紫式部は平安時代を代表する作家である。彼女は源氏物語という大作を残した。」
これを一文にまとめる訓練があります。
この力がつくと、読解・記述・要約すべてに効果があります。算数文章題ができない子は、文章の情景をイメージできていないことが多い。言語技術はその根本を補うものです。
現代教育への警鐘:「効率化」と「思考放棄」の間で揺れる子どもたち
石塚:
現代の教育環境について、どのような課題を感じていますか。
小林さん:
一番心配なのは、タブレット学習の急速な普及です。スウェーデンやフィンランドでは、紙教材に戻す動きが始まっています。タブレットは便利ですが、“考えなくていい”構造にもなり得ます。
実際、文科省のプロモーション動画で「タブレットがあると考えなくていい」と話す子が紹介されていて衝撃を受けました。
さらに、保護者の方からは「効率的に学ばせてほしい」という要望が増えています。しかし、教育は本質的に効率とは相反するものです。
辞書で目的の言葉を探すときに、周辺の語句との偶然の出会いがある。新聞を読む中で、関心のなかった記事が思考の扉を開く。こうした“予定外の情報”はデジタルには存在しません。
周りに流されず、自分で考え、判断し、行動する。
これが教育の最終目的であり、そのために非効率な試行錯誤を避けては通れません。
編集後記
今回の取材で、特に印象に残ったのは、小林良行さんが繰り返し語っていた「わかりやすさ」への違和感だった。
現代の教育や学習環境では、「わかりやすく教えること」「最短で答えにたどり着くこと」が善とされがちである。しかし小林さんは、その姿勢こそが、子どもから“考える時間”を奪っていると指摘する。
「わかりやすい説明」は、確かにその場では理解したように感じさせる。だが、それは多くの場合、「わかったつもり」を生むに過ぎない。自分の頭で試行錯誤する前に答えや手順を与えられた子どもは、次の場面で応用が利かず、再び答えを求める側に戻ってしまう。
小林さんが大切にしているのは、「わからない時間」をどう扱うかという視点である。すぐに教えず、すぐに正解を示さず、子ども自身が考え続ける時間を確保する。その時間は、効率という観点から見れば無駄に映るかもしれない。しかし、その“無駄に見える時間”こそが、思考の粘り強さや、自分で判断する力を育てている。
効率化やわかりやすさが過剰に求められる時代だからこそ、「わからない時間を大切にする」という姿勢は、教育における重要なカウンターとなる。小林さんの実践は、成績向上の手法というよりも、子どもが将来、自分の頭で考え続けるための“思考の土台”をどう育てるかという問いに、静かに、しかし確かな答えを示している。
ご紹介
Profile
思考道場 楠塾
代表/塾講師
東京都出身。
筑波大学人文学類卒業後、公文式本部に勤務し、教室の普及や教材制作に携わる。人の多い環境より自然の中で暮らしたいとの思いから長野市へ移住し、信州新町で自然養鶏を営みながら家庭教師・塾講師として指導を開始。
2001年に長野市稲葉の学習塾「エクセルゼミナール」を引き継ぎ、2007年に松代で「思考道場 楠塾」を開設。
国語と言語技術教育を中核に、「教わったことしかできない」のではなく、自分で考え、問題解決できる子どもの育成を重視している。
株式会社ウェブリカ
代表取締役
新卒でメガバンクに入社し、国土交通省、投資銀行を経て独立。
腕時計ブランド日本法人の立ち上げを行い、その後当社を創業。
地域経済に当事者意識を持って関わりながら、様々な企業の利益改善や資金調達を、デジタルや金融の知見を持ってサポートしています。