【第1話】「挑戦の軌跡」編〜秋田発、“高さへの挑戦”と共に歩んだバスケ道〜

株式会社Zero One Basketball
代表取締役
塚本 鋼平
TSUKAMOTO KOHEI

本連載「挑戦と育成で描くバスケの未来」では、秋田県藤里町出身・株式会社Zero One Basketball代表取締役の塚本鋼平さんにお話を伺いました。前編では、小学校のオウンゴール体験から始まり、能代工業への挑戦、教員時代の指導、プロコーチ、そしてBリーグ創設期での奮闘まで。塚本さんが歩んできた「挑戦の軌跡」をたどります。
原点は“オウンゴール
― バスケットボールを始めたきっかけは何だったのでしょうか?
塚本:小学校6年生の時に野球からバスケに転向しました。最初の公式戦で残り5秒、リバウンドを取ったのですが、焦ってしまい、自分のゴールにシュートを入れてしまったんです。いわゆる「オウンゴール」です。その一投で試合は負け。子どもながらに大きなショックを受けました。
でも不思議と「恥ずかしいから辞めよう!」とは思わなかったんです。むしろ「絶対にこの悔しさを取り返したい」「バスケで自分を変えたい」と強く心に刻まれました。この出来事が、人生を大きく方向づける原点になったと思います。
能代工業への挑戦
― 地元・秋田にはバスケの名門・能代工業高校がありますね。
塚本:はい。能代工業は“高さへの挑戦”を掲げ、全国を制した伝説的なチームです。その初代監督・加藤廣志先生は、僕の地元・藤里町の出身でした。田舎から都会に挑み、体格や環境の差を超えて勝ち続ける姿勢に強く心を打たれたんです。
僕自身も能代工業に進んだわけではありませんが、「必ず挑戦者でありたい」との想いで高校時代を過ごしました。能代工業との対戦では、全国トップとの差を痛感しましたが、同時に「高さ」とは単なる身長のことだけではなく、スピード・技術・精神力などあらゆる要素に挑戦することだと学びました。これが今でも自分の指導や活動の軸になっています。
教員からプロの舞台へ
― 高校教員を経て、プロコーチに挑戦した経緯は?
塚本:大学卒業後は秋田で教員となり、9年間バスケ部を指導しました。日々の練習や大会を通じて、選手と一緒に悩み、泣き、喜んだ時間は今でも宝物です。
転機は、恩師が女子日本代表を率いた試合を目の当たりにしたことでした。大方の予想を覆して強豪・韓国に勝利した瞬間、ベンチ裏で涙が止まらなかったんです。「自分もこんな舞台でバスケを指導したい」との想いがふつふつと湧き、教員を辞める大きな決断をしました。
その後、和歌山トライアンズでコーチを務めることになりましたが、シーズン途中にクラブが経営破綻。プロの世界の厳しさと同時に「バスケが目の前からなくなる」という喪失感を体験しました。このとき「自分がバスケを守り続けなければ」という強い使命感を抱きました。
Bリーグ創設期での奮闘
― その後はBリーグ創設にも関わられたそうですね。
塚本:はい。当時、日本バスケット界は二つのリーグに分裂し、国際大会への出場停止処分まで受けていました。そんな状況を打開するために誕生したのがBリーグです。私は育成・強化部門に加わり、ユース世代のチームづくりや大会整備に取り組みました。
当時は公式戦の仕組みも十分ではなく、若い選手が挑戦する舞台が限られていました。そこで「ジュニアユース」や「ユース」世代の仕組みを整え、プロクラブと地域が子どもたちを育てる流れを作ることに尽力しました。
今、Bリーグのコートでユース出身の選手が堂々と戦う姿を見ると、胸が熱くなります。解説をしていても、その瞬間に思わず涙ぐんでしまうことがありますね。「あの時の取り組みが今につながっている」と実感できるのは、指導者冥利に尽きます。
編集後記
「オウンゴールから始まった挑戦」。塚本さんの半生は、この一言に集約されます。失敗を力に変え、挑戦を続けてきた姿は、地域から全国へ羽ばたこうとする人々に大きな勇気を与えてくれます。
そして、この“挑戦”の先に見えてきたのが、もう一つのテーマ──“育成”。
次回予告
塚本さんが掲げる「”育てること”こそ国の根幹」という信念について、じっくり伺っていきます。
ご紹介
Profile
株式会社Zero One Basketball
代表取締役
Master of Business Administration(MBA:経営学修士) スポーツ・フォー・トゥモロー・コンソーシアム(SFTC)準会員 日本スポーツマンシップ協会(JSA)公認 Sportsmanship Coach 一般社団法人 日本防災共育協会認定 SDGsビジネスエデュケーター 日本バスケットボール協会(JBA)公認S級コーチ 日本バスケットボール協会(JBA)公認コーチデベロッパー